シンポジウム・講座

2012.09.11

会って、語れる、お坊さんに!?仏教者の社会貢献を考える集い

自死、貧困、地域コミュニティの喪失......日本社会は取り組むべき課題であふれていると言っても過言ではありません。全青協では、こうしたさまざまな社会的課題に対して問題意識を持って取り組むお坊さんに、自らの活動内容や動機などを語ってもらう催しを行いました。

秋晴れの9月11日、東京にある大正大学の大会議室には、僧侶をはじめ、仏教や社会問題に関心を寄せる100人近い来場者が集いました。4名のパネリストを迎え、第一部にそれぞれの活動報告を、そして第二部ではパネルディスカッションが行われました。

僧侶に求められるものとは

はじめに、真宗大谷派の僧侶である谷山洋三さんが、「ビハーラ僧、チャプレンから臨床宗教師へ」と題して活動発表を行いました。ビハーラ、チャプレンとは、いずれも聞きなれない言葉ですが、ビハーラはサンスクリット語で僧院や安住、休養の場所を指し、現在では仏教の立場から苦しみを和らげたり、癒しの支援をしたりといった医療や福祉の分野に関わる活動や施設のことを指すようです。またチャプレンは、施設や組織で働く聖職者を表します。

大学を卒業後、仏教系の緩和ケア病棟でチャプレンとして働くことになった谷山さんは、患者さんに接する際、初めの頃は「何をしたらよいのかわからない」と感じていたそうです。悩んだ末に谷山さんが出した結論は、患者さんに対して「何をしようか」「話そうか」という発想ではなく、とにかく相手の話を聴き、じっくりと信頼関係を築くこと、つまり、傾聴の大切さに思い至ったそうです。

昨年起きた東日本大震災以降に行われた、地元の宗教者や医療者、研究者などの連携によるこころのケア活動をふまえ、東北大学では実践宗教学寄付講座が誕生しました。
谷山さんは同講座の准教授として、さまざまな信仰を持つ人の宗教的なニーズに答えられる宗教者、つまり、人々のこころに寄り添う専門職「臨床宗教師」の育成を目指しています。

谷山さんは、宗教者によるケアには、大きく分けてスピリチュアルケアと宗教的ケアの2つがあると解説。双方には共通点が多いものの、スピリチュアルケアが相手の話を聴き、本人の気づきを「待つ」姿勢なのに対し、宗教的ケアはもう少し積極的に、気付きを「与える」姿勢であることが大きな違いと語りました。また、僧侶は自身の信仰に基づいた「布教」を考えがちですが、それは相手から求められたときのみ行うべきで、現場では教団・教義の理念から離れ、布教や伝道をしないという心がまえでいることが肝要と説明しました。

しかし、自身の信仰心は言うまでもなく大切で、支援者、被支援者が個々の信仰を意識しておくことは、互いを尊重する上でも欠かせませんと述べました。

次に、臨済宗建長寺派の僧侶である藤尾聡允さんのお話がありました。藤尾さんは、宗派を超えた有志の僧侶による団体「自死・自殺に向き合う僧侶の会」に所属し、自死や孤立防止、また自死遺族のためのケア等の活動を行っています。この問題に関して「僧侶でなくてはできないことは何か」と絶えず考えてきたという藤尾さん。「悩みに寄り添うのがカウンセラーだとしたら、悩みを解き放つのが宗教であり僧侶でしょう。最近は葬式仏教などと伝統仏教のあり方が揶揄されていますが、伝統的な宗教儀式は、仏教者が考える以上に、むしろ一般の方に期待されています。まずは僧侶がそれぞれの宗派の伝統をきちんと担えるようになっていることが大切ではないでしょうか」と述べました。

藤尾さんは、自身が所属する会で行われている自死者の追悼法要や、自死遺族のわかちあいの集いに参加した方の感想を紹介し、同時にあるエピソードを語りました。
追悼法要の際に、まだ若い僧侶がぎこちない様子で、懸命に祈りを繰り返していました。お子さんを亡くしたお母さんは藤尾さんに、その僧侶の祈りを目にして、自分の亡くなった子どものために一生懸命に祈ってくれている、その姿に涙が止まらなかったと語ったそうです。
儀式や伝統の力を大切にして、他者のために祈り、懸命に行動すること。こうしたことが、仏教者の社会貢献としてまさに求められているのではないかと藤尾さんは語ります。そして、そのためにも僧侶として日頃からの修行と実践を心がけるべきですと語り、話を締めくくりました。

信頼されている「お坊さん」

続いて発表を行ったのは、天台宗の僧侶である鈴木行賢さんです。鈴木さんは、福島県の寺院の住職であり、兼務している福島県飯野町のお寺「五大院」にて、毎月28日に地元の協力者とともに町おこしの縁日を開催しています。

何十年も無住のままであった五大院で、最初の縁日が開かれたのは平成13年のことでした。町の商店街の真ん中にお寺があったことから、お寺を中心として、若者からおばあちゃんたちまで賑々しく集える催しにしようと、鈴木さんと町の有志は何度も話し合いを重ねたといいます。
その甲斐あって、縁日の内容は回を重ねるごとに盛り上がりを見せています。お寺でのお札の収入をすべて使い、温かいだんご汁などを来た人に無料でふるまうほか、町の人で写真が趣味の人があれば呼びかけて写真展を開いたり、小中学生の民話のクラブに声をかけて民話を披露してもらったりと、町の人たちの得意分野を生かしての催しは評判を呼んでいます。今では町の内外からも大勢のお客さんが集まり、人々のコミュニケーションの場として機能しているそうです。

そして震災以降は、全村避難となった飯館村の人たちが町内に越してきました。そこで縁日の催しとして、飯館の太鼓グループに演奏の機会を提供するなど、交流を深める試みも行っています。
「僕にはお護摩をたいて、ご祈祷することしかできません」と謙遜する鈴木さんですが、町おこしにしても震災の支援にしても、まずは住職としてできることを一生懸命することが大切なのではと、活動に関して自身の心持ちを述べました。

色々な現場に関わろう

活動発表の最後には、浄土宗の僧侶であり、生活困窮者の支援を行うボランティアグループ「ひとさじの会」の事務局長を務める吉水岳彦さんがお話しました。

吉水さんは東京の山谷とよばれる地域で生まれ育ったそうです。子どものころから、お寺のお墓の入り口に刺青の人が酔って倒れていたり、本堂からお供え物を両手いっぱいに抱えた知らないおじさんが出てくるのに鉢合わせたり......といったエピソードを語ると、会場内からは笑いも漏れました。しかし、生活困窮者の支援団体に連れられて改めて現場を目にすると、路上生活者が置かれている過酷な現実に愕然としたといいます。「自分たちにも何かできることをしたい」そう考えた吉水さんたちは、仲間の僧侶や協力者とひとさじの会を発足させたそうです。

吉水さんは、「私がお坊さんだと分かると、路上生活者の方はお寺での幼い頃の家族との思い出を語ってくれるんです」と述べ、路上生活の方がこころを開いて下さるのも、会の活動に檀家さんや一般の方などのさまざまな人が関わりに来てくれるのも、お寺と仏教に十分な信頼性があるおかげかもしれないと語ります。

「つながりが実感しにくい今の世の中で、『今世だけでなく来世まで一緒に生きていきましょう』なんて言えるのは仏教者だけではないでしょうか。寄り添うということは、決してきれいごとではありません。活動すればするほど、自分のいたらなさや苦しさを感じます。私たち仏教者はもっと色々な現場に関わり、『苦』を机上のものとしてではなく自らの身に感じていくことが大切ではないでしょうか」と述べました。

示される僧侶の「努力の方向」

後半は、全青協主幹の神仁をコーディネーターとして、4人の発表者によるパネルディスカッションが行われました。

活動発表では谷山さんから臨床宗教師のお話がなされましたが、全青協付属の臨床仏教研究所でも、こうした宗教者による新しい専門職をつくり、グリーフケアの現場などで、さまざまな困難を抱えた人々のこころに寄り添える人材を養成したいという計画があります。今、一体なぜこうした役割をもつ宗教者が必要なのでしょうか。

谷山さんは、「私たち僧侶は、お悩みをお聞きしたりと、日常的に相談活動などを行っていますが、たとえばこれは医療や福祉などの専門家につないだ方が良いと思われる際にも、専門家と対話をしたり、関係性を築いたりする上で、ある程度の知識や知見が必要となってきます。その上、実際に現場で経験を積むことによって、よりよい支援のための連携をとることができるのです」と述べました。

また、仏教者が社会貢献活動を行うことについては、それが本当に仏教者の役割として必要なのかと懐疑的な仏教者も多いようです。
それに関して吉水さんは、「お寺ごとに事情があり、すべての仏教者が必ず何かの活動に関わるべきとは思いません。しかし、み教えを建前にして現実から目をそらしているのでは、と思うような仏教者を目にすることは確かにあります。そうした方に理由を尋ねてみると、『仏教界の中で自分だけが活動するのはちょっと......』などという答えが返ってきます。目の前に倒れている人がいれば、そこに駆け寄るのは自然なこと。そうしたシンプルな思いを忘れないでいただきたいですし、活動の可能性にも目をつぶらないでほしいです」と訴えました。

そして鈴木さんは、「臨床仏教という言葉自体はなかなかピンと来ないです」と語りながらも、自身が進めている縁日をたとえとして、「縁日を社会貢献と言うのであれば、人と人とのご縁を結ぶ場として機能しているということでしょう。普段、ぼんやり過ごしている町のおばあちゃんたちも、縁日には頑張らなきゃと、ひとつの楽しみとなっています。僧侶としての宗教的な役割をきちんと務めながら、そのつど知恵をしぼり、縁を結ぶ場を作る努力をすることがお坊さんのできることではないでしょうか」と述べました。

マイ・テンプル、マイ・坊主

こうした話を受けて藤尾さんも、「葬儀や法要も、きちんと務めれば人々のこころにかなう大切な供養の場となります。臨床仏教とは、これまでのお坊さんのあり方とまったく違う革新的なもの、というわけではありません。仏教の伝統儀礼に加えて、関わりを必要としている人に寄り添うという、近年では欠けてしまっていた部分に目を向け、再び実践する作業なのではないでしょうか。そのためにも、ベースとなる修行を大切にすることが肝要です」と発言しました。

藤尾さんは、オウム真理教の事件により遺族となり、今は友人としての付き合いもあるという女性を例に挙げ、「彼女には何人かの相談できるお坊さんがいます。彼女のように会(A)って語(K)れるお坊(B)さん(AKB)、いわばマイ・テンプル(寺)もしくはマイ・坊主を持ってもらえるよう、仏教者には日頃から修行や実践を行ってほしいと思います」と述べました。

鈴木さんのように、地域に根ざし、周りの人と手をたずさえながら人々のささやかな幸せをともに作り出すお坊さん、そして谷山さんが語った、困難を抱えた不特定多数の人のこころに寄り添える、いわば公共性と専門性を持ったお坊さん......。

両者の取り組みは違うベクトルを持っているようですが、自身の信仰や教義に基づく修行を全うした上で、初めて社会貢献が成り立つということが、4人のパネリストに共通する見解であったように思われます。
そして、日々出会う事象の中にこそ、世にある課題や矛盾に気付き、一歩を踏み出すヒントが隠れていることを教えていただいたように思います。お坊さんが街に出て、仏教ではなく仏道を生きる勇気を持つことが大切なのかもしれません。

震災と宗教を考えるシンポジウム2011「もうひとつの生き方を探る」
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