仏教者の活動紹介

インドと日本の架け橋として ―サンガラトナ・法天・マナケ―

(ぴっぱら2004年6月号掲載)

インドと日本と

約束の場所に早めに着き、待つこと十数分。茶室風の造りのため、ただでさえ狭い部屋の入り口をほとんど身をかがめるようにして、浅黒い男性が入ってきた。作務衣に身を包み、下駄を履いた彼が、サンガラトナ・法天・マナケ師だ。
「道が少し混んでいて、遅くなりました」と、さして遅れていないのに丁寧に詫びる口調は、少し関西弁の入った滑らかな日本語。かつて英会話学校のCMで「関西弁を話す宇宙人」というモチーフがあったが、その伝で行くと「関西弁を話すインド人」ということになるだろうか。事前に知っているはずなのに、どうしてもそのギャップに驚いてしまう。国際化の進んでいない日本の(筆者の......)現状をよく表しているように思われた。

期待を担って

仏教発祥の地として知られるインド。しかし、今のインドはヒンドゥー教徒で多くを占められ、仏教の灯はほとんど消えてしまっている。
インドはまた、カースト制度という階級差別が根強く残ることでも知られている。職業の選択も結婚も、カーストによって制限を受ける場合がある。かつて、そんなカースト制度を撤廃するために、人々の平等をとなえる仏教に改宗しようという運動が広まった。ネルー内閣で法相も務めた政治家で社会運動家のアンベードカルが始めたこの運動に30万人とも言われる人々が共感し、参加した。マナケさんの父親もそのひとりだ。
仏教の灯が途絶えたインドでは、人々は仏教を正しく知らないまま仏教に改宗していた。そんな状況を憂慮していたマナケさんの父が出会ったのが、ちょうど訪印していた日本の天台宗僧侶・堀沢祖門師である。十二年参篭行を勤め上げたことでも知られる堀沢師の力添えで、サンガラトナさんの日本への仏教留学が実現する。大乗仏教をインドで復興するという期待を一身に担って、マナケ少年はわずか9歳で来日することとなった。僧名の「法天」は、「天竺に法を返す」意をこめて堀沢師がつけたのだという。
1971年に来日したマナケさんは、以来15年を比叡山での修行に明け暮れた。日本の言葉や文化を3ヶ月で覚えると、他の修行者と全く同じように教育を受ける。山内でマナケさんの存在を知らない人はいないというほどの熱心さで修行に励んでいった。

日本とインドの狭間で

やがて1985年にインドに帰国したものの、マナケさんにとってそれは「帰国」ではなく「訪印」だったという。9歳から24歳という成長期を日本で過ごしたマナケさんは、「来日したインド人」というよりもむしろ、ひとりの「日本人」として成長していたのだ。
父親との会話にも通訳が必要という状況の中、インドに仏教を伝えるという重い期待を背負い、一時はかなり精神的に落ち込んだという。仏教伝道の拠点として禅定林を建てたものの、土地の人と触れ合うことなく、考え込む日々が続いた。
悩む日々を乗り越えて、マナケさんが始めた活動のひとつが、子どもたちを集めた日曜学校である。子どもたちを預かって、社会で生活していくのに必要なことを教えていくことから始めたのだ。子どもたちと触れ合いながら、マナケさんはインド社会の実情を肌で学び、何が本当に必要とされているのかを経験の中で考えていく。
その中で到達した答えが「教育」だった。
「貧しい人や環境に恵まれない人のための社会福祉は必要です。しかし、彼らが社会におぶさったままではいけない。経済的・精神的に自立し、独立独歩で生きていくため、自立する気持ちを持ってもらうために必要なのが『教育』なのです」

教育から自立が始まる

日曜だけの学校では、教えたことがなかなか子ども達に定着せず、実を結ばないことに気づいたマナケさんは、1991年「パンニャメッタ子どもの家」を開設し、恒常的に子どもたちの世話をすることを始めようと決意する。あっというまに情報が広まり、子どもたちが次々と集まってくる。その中でも、親がなかったり、家庭や周囲の環境が悪く、「このまま帰したら子どものためのよくない」と思われるような子ども7人を預かるところから始めていった。
以来14年、子どもたちを育て続け、現在も35人の子どもたちと生活を共にしている。ストリートチルドレンとしてごみを拾いながら生きるしかなかった子どもたちが、衣食住と愛情が保証された暮らしの中で教育を受けている。
「教育とはいっても、文字が読めなかった子が読めるようになる、といった程度でしかないというのが実状です。教師の給料も支払える額に限度があり、いい先生は残ってくれません。それでも、教育がなければ、格差は広がる一方なのです」
インドの中でも、デリーなど都市部では経済が発展し、ものがあふれている。高級車などの広告看板も東京などと同様に立ち並んではいるが、そういったものに手が届くのはごく一部の人々でしかなく、貧困層などにとっては、テレビCMで目にしていても、「その商品が何のためのものだかさえわからない」というほどの、歴然たる格差が存在しているのだ。
「生きていくだけでせいいっぱいの子どもたちは、大人と同じように働かなくては食べていけず、子どもとしての時間を奪われています。子どもらしいときに子どもらしくあってほしいというのが、私たちの願いです」

仏教徒として

マナケ師がインドで活動するにあたっての方針は二つある。ひとつが、「パンニャメッタ子どもの家」のような、慈悲行・布施としてのボランティア活動。もうひとつが、マナケさんの父の願いでもある大乗仏教のインドでの復興だ。
「インドで1500年前に仏教が滅んだのは、イスラム教徒に征服されたというだけではなく、当時の仏教にゆがみがあったからではないかと思います。仏教が社会として成り立っておらず、街と離れ、人と離れた暮らしをしていたからではないでしょうか。
日本も、当時のインドと同じ状況のような気がします。儀式以外の場で僧侶と信者が接する機会がないという現状のままではなく、社会ともっとかかわっていかないといけないと思います。お釈迦さまも、人里離れた山の中でではなく、人の住む村で悟ったのですから」
インドだけでなく、日本の仏教の将来をも憂慮するマナケさん。国境を越えた活動の中で、仏教の真のあり方を示し続けている。(内)

(ぴっぱら2004年6月号掲載)
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