仏教者の活動紹介

インドで花開いた情熱 ―ダルマチャクラ・ヴィハーラ―

(ぴっぱら2002年10月号掲載)

釈尊への思慕

漢訳仏典の中に「鹿野苑」として登場するインドのサールナート。その名のとおり、かつては多数の鹿が住む森であったといわれる。今では一帯が政府の手によって公園として整備され、餌付けされた数十頭の鹿が往時の名残を物語っている。一説によると、奈良の東大寺や千葉の鹿島神宮は、このサールナートを模して造営されたという。
釈尊はこのサールナートで、5人の修行仲間に対して自分が体得した真理を初めて説いたと伝えられる。5人の仲間はその優れた教えを聞き、たちまち釈尊の弟子となった。これが仏教教団、サンガ(僧伽=集い)のはじまりだ。最盛期には千人を超える数の修行者が、この地で真理を追い求めて修行をしていた。

それから二千数百年、往時を偲ばせる精舎の跡や巨大なストゥーパ(仏塔)、仏教に深く帰依したアショーカ王が経てた法勅など、数多くの遺構を今でも目の当たりにすることができる。仏教の四大聖地のひとつに数えられ、毎年アジアの仏教国から、多くの巡礼者がこの地を訪れる。ここ数十年の間に、公園の周りに日本の寺院を初めとして、中国、タイ、チベット、スリランカなど、アジアの仏教国の寺が建ち並ぶようになった。
その公園から徒歩で5分ほど、ベナレスの町に向かう途中に、ダルマ・チャクラ・ビハーラ(法輪精舎)という質素なお寺が建っている。自動車に乗っていると見過ごしてしまいそうなこの寺の住職を務めるのは後藤恵照さん。1979年に自らの手でこの寺を建立した。後藤さんはもともと曹洞宗の僧侶だった。学生時代から原始仏典に魅かれて、パーリ語の仏典に傾倒してきた人だ。日本の僧籍を持ちながらも、あえて釈尊が教えを説いたインドで本場の仏教を学びたいと、20年余り前にインドへ渡った。そして、カルカッタにあるベンガルブディスト協会で得度し、テーラヴァーダ(上座部)仏教の僧侶となった。教えに対する厭くなき求道心が、30代後半になった後藤さんをインドへ向かわせたのであろう。
以来、後藤さんはサールナートの地に根を張り、地域に密着した布教活動を行ってきた。その活動の中心が、貧しい家庭の子どもを対象とした教育であった。

寺子屋教育の始まり

釈尊が40余年間布教をして歩いた土地のほとんどが、現在のビハール州にあたる。成道の地ブッダガヤ、入滅の地クシナガラ、そして初転法輪の地サールナートと、誕生地のルンビニーを除いたすべてがビハール州内にある。ビハール州は農耕を経済基盤としているが、釈尊の在世時代とは異なり、現在は土壌が余り肥えていない。そのため経済のレベルとしては、インドの中でも下位の方にある。
とくに自分の土地を持たない小作農家の家庭は、十分な食事も取れず子どもたちを学校に通わせる資力がない。後藤さんは、そのような家庭の子どもたちを対象にして寺子屋を開設した。
なぜ大人ではなく子どもなのか――と聞くと、「大人の考え方を変えるのはたいへんです。その点、子どもたちは柔軟です。新しい教えをすぐに受け入れてくれます」と、後藤さんは答えてくれた。鉄は熱いうちに打て、三つ子の魂百までも、ということなのであろう。インドと日本、場所は変われども人としての性向は変わらない。子どもの頃から自然なかたちで仏の教えに親しむことが重要なのだ。

加えて「教育とそれによって得た知識は人にとって一生の宝になります。しかし、貧しい家庭の子どもは学校へ通うことができません。この現状を変えなければ、貧しい子は一生貧しいまま生きていかなければなりませんからね」と、子どもたちを取り巻く厳しい状況を語ってくれた。
子どもたちが直面する現状を何とかして変えていきたい――という後藤さんの熱い思いに、やがて賛同者が現れはじめる。その数は年々少しずつ増えていき、活動を支援する「法輪精舎友の会」という草の根のネットワークが出来あがった。後藤さんはサールナートの公園で、日本からやってくる参拝者に声を掛け、精舎へ招いて子どもたちの状況を説明した。
日本からの寄付金などでようやく校舎が建てられるようになったのは10年ほど前、1993年の7月のことである。教育理念は「平等と慈悲のこころを子どもたちに伝える」こと。授業料無料の私立中学校が正式に開校した。1997年には高校も併設し、生徒数が200名を超える中高一貫の「ダルマチャクラ・スクール」が誕生した。

平等と慈悲のこころ

インドには今日でも四姓制度という社会的な階級システムが生きている。結婚相手を選ぶ際には、同じ階層から選ばなければならないなど、社会や生活文化に大きな影響を与えている。
下層の家庭に生まれた子どもたちは、さまざまな差別や偏見など、出自によるデメリットに直面する。なかでも、貧しい家庭にうまれた子どもたちは、学校へ通うこともままならず、家計を支えるために労働へ駆り立てられる。小学校はもとより、中学校・高校へはなおさら通うことができない。教育を受けることのできないハンディキャップは、その後の子どもたちの一生を左右していく。
「貧しい家庭の子どもたちには夢と希望がありません。親の無理解で優秀な子どもも学校を辞めて働きに出なければならないケースが多いです。また、インドはワイロがものをいう社会ですから、財力がないと就職すらできません」

そのような差別と貧困の中で生きる子どもたちに、後藤さんはあえて「仏教の平等と慈悲のこころ」を伝えようとしている。釈尊は四姓制度に反対した。仏教ではその人の出自や条件に関わらず、すべての人が平等であると説いた。そして互いに慈しみのこころをもって生きていく道を教えている。古来より変わらない普遍の教えである。
今日、「自分さえ幸せであればそれでいい、自分さえ豊かであればそれでいい」という悪しき自己中心主義が、洋の東西を問わず世界中に横行している。各地で起こっている民族や宗教間の対立は、それを導く人たちの自己中心的な考え方が原因のひとつであろう。
このような社会状況下にあって、後藤さんがめざす「平等と慈悲のこころの教育」はとても重要な理念だといえる。ダルマチャクラ・スクールでは、さまざまな宗教を持つ子どもたちが共に学び、肌の色や心身の障害の有無を超えて、この世界のすべての人間が共に生きていく智慧を学んでいる。近年では学校の卒業生が、市会議員や学校の先生となり、その理念を広めるために尽力をしているそうだ。後藤さんの地道な活動が生んだ大きな実りといえよう。
今後の目標について後藤さんは、「幼稚園から大学までの一貫教育を実現したいと思っています。それから、地域の障害を持つ子どもたちが通える専門の養護学校や職業訓練校も作りたいですね」と抱負を語ってくれた。
釈尊の布教生活は45年、後藤さんのインドでの布教生活は23年。比べてみると、ちょうど折り返し点に差しかかったといえるのかもしれない。これからの20余年間、インドの子どもたちに、そして日本を含めた世界中の子どもたちに、誠の幸せへの道を語り続けていってもらいたいと思う。(神)

(ぴっぱら2002年10月号掲載)
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