海外スタディツアー

1999.12.09

第1回 インド教育福祉施設視察&仏跡参拝ツアー-子どもたちのために今何ができるのか?-

  • 【企画】全青協
  • 【後援】インド政府観光局/(財)日本ユニセフ協会/読売新聞社/(財)日印協会/インド航空
  • 【主催】(株)大陸旅遊
 

インドの教育福祉事情 カルカッタ編

仏教をはじめさまざまな宗教が誕生したインド。その偉大なる魂(マハートマン)の国の人口は、まもなく10億を超えようとしている。2020年には中国を超えて15億にとどくという説もある。つまり20年後には、5人に1人がインド人という計算になるわけだ。
インドは'80年代に資本主義社会の仲間入りをし、ここ10年あまりの間に経済面で目を見張る発展を遂げた。とくにコンピュータ・テクノロジー、ソフトウェア-の分野は、最先端のレベルにあるといわれている。世界中の投資家たちが今この国に注目している。
そのような発展の裏で、およそ8人に1人の乳幼児が死んでいっている。また学校に通わず就労する児童の数も、政府の公式発表でも約1800万人、NGOの調査によればおよそ4400万人と深刻な状況にある。
'95年のユニセフの調査によれば、所得総額の上位20%の所得伸び率が年間に42.6%であるのに対し、下位20%の伸び率はわずかに8.5%であった。同年のインフレ率が9.8%であることから、所得額の低い人の収入は実質的にはマイナスとなっている。経済的な発展が確実に貧富の差を広げているということになろう。

このような状況の中、子どもを含む貧しい層の人々のために、医療や教育の分野で精力的に活動を行っているNGO(非政府組織)がある。
その一つが、イギリス人医師ジャック・プレジャー氏によって設立されたカルカッタ・レスキューだ。プレジャー氏は'79年から、カルカッタの貧しい人々のために食事と医療のサービスをはじめた。その後4つの病院を設立し、現在では一日250人から300人の患者の診療を無料で行っている。 プレジャー氏は5年ほど前に公開された「シティー・オブ・ジョイ」という映画のモデルともなった人物である。この映画を見た世界中の人々が、自分のできる範囲の中でさまざまな形の志を氏のもとに寄せている。
その病院の一つ、スラム地区に隣接したターラパーク・クリニックは、12歳までの子どもを対象とした小児病院だ。朝の9:00から12:00まで西欧人やインド人の医師・看護婦がボランティアで治療にあたっている。ここを訪れる人はあとを絶たず、整理券を早朝より配布して人数制限をせざるをえない状況にある。私たちが訪れた際にも、カルカッタ郊外から一時間バスに揺られてやってきた若い母親がいたが、係員に「明日また来るように」と促され、病気の乳児を抱えて自宅へと帰っていった。

この病院を訪れる子どもたちの多くは乳幼児で、そのほとんどが栄養失調や伝染病を患っている。台風でもくれば吹き飛んでしまいそうな急ごしらえの診療所の床には、おそらく一万人分は下らないであろう数のカルテが、いくつもの木箱にぎゅうぎゅう詰めにされてそこかしこに置かれていた。訪れた患者のカルテを探し出すだけでも一苦労であろうことは、私たちにも容易に想像がつく。100人ほどの母親たちが、みな右手にカルテを持ち左手に乳飲み子を抱えながら、地べたに座り込んで診療の順番を待っている。その視線の先には2名のインド人医師の姿がある。整理番号を呼ばれた母親と子どもは、医師の前に置かれた木の椅子に座り診療を受ける。医師は手際良く診察を下し、処方箋を書いて後方にある薬局へと彼女たちを送り出す。薬局といっても木製の長机に数種類の薬品が無造作に置かれただけの粗末なものだ。
病院のスペース、スタッフの数、薬品の量と質、どれをとっても充分なものとはいいがたい。私たちを案内してくれたイギリス人のスタッフMs.デラニーさんに「いま一番必要な援助は何ですか?」と聞いたところ、「やはりお金です」と彼女は迷うことなく答えた。
結核に関していえば子どもたちに投与する薬代が、一人あたり月わずか37ルピー(約105円)、施設の運営費が174ルピー(約500円)である。それでも人数制限しなければならないほどの現状がここにある。日本ではタバコ二箱、ラーメン一杯程度の金額なのだが......。

カルカッタ・レスキューでは、これらの病院のほかに二つの学校を運営している。これらは単なる学業の場ではなく、食事や衣服を供給し、さらには自立のために手工芸品の製作技術を教える施設である。ミルモニミトラ・ストリートにある学校はNo.10スクールと呼ばれ、'89年の設立当初、病気がちの親を持つ30人の子どもを対象にスタートした。現在は二階建ての校舎に四つの教室があり、この地域だけでなくカルカッタ中から子どもが通ってくる。生徒数の増加に伴い一度に授業が行えなくなったため、午前と午後の二交代制をとっている。

ここで教えられる科目は、「ヒンディー語・ベンガリー語・英語・算数・一般知識」である。子どもたちは、まず読み書きができるかできないかによって、二つのクラスに分けられる。その後、それぞれの習熟度によって、レヴェル1から3のクラスに進級する。レヴェル3を終了した子どもは、公立の小学校へ入学することが可能となる。'98年度は6人が進学したがそのうち2人が退学してしまった。現在は合計で53人の卒業生が公立の小学校に通っている。

インドの識字率は州により大きな較差があるが、国全体では男性が64.1%、女性が39.3%である。実はこの女性の識字率の低さが、乳幼児の死亡率の高さと密接に関係しているのだ。つまり文字が読めないため、あるいは衛生面での一般知識を知らないため、若い母親は子どもの病気に関する的確な判断ができないのである。なかには適宜授乳ができないために乳児を栄養失調にしてしまうことさえあるという。

現在のインドでは物質的な貧困よりも、むしろ知識・教育の貧困が社会福祉上の大きな問題となっているということを、今回のインド訪問で私ははじめて知った。

さて、カルカッタで私たちは、カルカッタ・レスキューの他に、マザーテレサの愛の宣教師会が運営する養護施設シシュ・バヴァンやカルカッタ・ソーシャルプロジェクトが運営する小学校で、折り紙や風船遊びをしながら子どもたちとの交流会を行った。

シュシュ・バヴァンには、100名ほどの乳幼児が暮らしており、宣教師会のシスターをはじめ、世界中から集まってくる女性ボランティアが子どもの世話をしている。20名程のボランティアスタッフの中には、5~6名の若い日本人女性が含まれていた。彼女たちは周辺の安宿に寝泊りをしこの施設に通っている。朝の9:00から午後の3:00まで、割り当てられた部署で献身的にボランティアを行う。
話を聞いてみると、驚いたことに彼女たちのほとんどが一般の社会人であった。1週間から10日程度の有給休暇を取りインドに来ているという。「帰ったらすぐに仕事なんですよ!」と快活な笑みを浮かべながら私に語りかけてくれる。
「なぜここに来たの?」という問いに対し、彼女たちは明確な答えを示さない。
「来たかったので......」「なんとなく......」。
私はそれ以上の問いを投げかけようとは思わなかった。彼女たち一人一人がそれぞれの言い知れぬ思いを抱きながら、この地にボランティアとしてやってきたのであろう。目的意識を持たない世代と評される彼女たちだが、肩の力を抜いた自然なその姿に、私はむしろすがすがしい心地良さを感じた。
建物2階には乳児室があり、50ほどのベッドが整然と並べられ、生まれてまもない子どもたちが列をなして横たわっている。親のいない子どもたち、あるいは何らかの事情で親が養育できない子どもたちだ。
もみじの葉のように小さな子どもたちの手にふれてみる。するとどの子どももみな私の指を握ってくる。なかなか離そうとしない。その柔らかく力強い感触の中で、子どもたちの生の重みに思いをめぐらす。「すべての子どもは仏さまから命を授かっている」「仏の子......」、たしかにその通りであるし、実際に私は人前でそう語ってきた。しかし......。

釈尊が誕生しその布教の舞台となったインドは、21世紀を迎えようとする今日、これまで以上に多様な顔を私たちに見せている。日本では近年、幼児虐待という問題がクローズアップされいる。幼児虐待とはすなわち幼児の生存権を奪う行為である。国連の子どもの権利条約を取り上げるまでもなく、すべての子どもたちには生きる権利がある。いや、生きる権利という以前に、みな生きるためにこの世に生まれてきたのである。
しかし、3000万を超える数の乳幼児が、毎年インドで命を失っている。いい替えるならば不可効力のうちに、子どもたちの生存権が奪われているということになろう。今私たち大人は、彼らが健やかに成長するために何ができるのか、国の違いに関わらず考えねばならないのではないだろうか。

第2回 インド交流の旅  -インドで自分を見つけよう!!-
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