寺子屋ふぁみりあ

2017.07.06

本当のしあわせ

 6月1日、平成29年度第二回目の寺子屋ふぁみりあが開催され、本願寺派布教使で光善寺坊守の柳川眞諦先生に、「本当のしあわせ」をテーマにご講演いただきました。

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 以下は講演の抄録です。

 私も皆さんも、幸せになりたいと思いながら日々生きていると思います。でも、幸せの定義は曖昧です。人それぞれ定義は違うかもしれませんし、一年毎、一日毎に定義は変わっているかもしれません。そのような幸せを、今日は皆さんと一緒に考えたいと思います。

 私がいつも講義で伝えているのは、幸せは探すものではなく、気づくものです。幸せを外に求めても、いつまでたっても見つけることはできない。なぜなら、見つける私の心自体が日々変化しているからです。仏法というのは、そんな私の中に自分の目を向けていく働きでもあるのです。
 例えば、何とか知恵をもらってひきこもりの子どもを外に出したいと必死になって、藁をもすがる思いでふぁみりあに来た方もいると思います。中には、仏様の力でそれができるのではないかと錯覚している方も多いのではと思います。私たちの命には限りがあります。それは分かっているのに、どうして高いお札を買って、ご祈祷をするのか。それは、自分が今向き合っている苦しみから逃れたい心が、どこかにあるからではないでしょうか。
 
 実は、仏様の教えは、ありのままの現実から逃げないことを教えて下さるのです。苦しみの現実を知ることが、仏道を歩むことです。その苦しみはどこから来るのか。何でこんなに苦しいのか。そこから逃げずに見つめていくのが仏法という、お釈迦様の教えなのです。
 浄土真宗のご本尊・阿弥陀如来様は、私たちの欲望は何一つ叶えて下さいません。反対に、そんな私たちに、本当の姿を気づかせて下さいます。仏様からご覧になった私たちは、臨終の瞬間まで自分のことしか考えられない、自己中心的な心から離れられない存在です。だからこそ私たちは、自分で地獄や苦しみを作っているのです。そしてその苦しみから、自らの力では決して抜け出ることはできない存在だと映っています。だからこそ、阿弥陀様は、こんな私を一人ももらさず救いたいと思って阿弥陀如来となってお出まし下さっているのです。阿弥陀様は私たちに、知恵の光をもって、無明煩悩を破って自分の姿を見せて下さいます。そこに見えてくる自分は、いったいどんな私なのでしょうか。

 今、私も皆さんも、それぞれ苦しみを抱えて生きています。それが、人間としてこの世界を生きるということですが、苦しみの内容は一人一人違います。
 例えば、家族の誰かがひきこもっているとします。そのことに関して、一人一人が苦しみを覚えている訳です。父親、母親、当人が抱えている苦しみの内容は全て違いますし、一番苦しんでいるのは当人だと思います。なぜなら当人の人生だからです。当人が一番、何とかしなければと思っているのではないでしょうか。
 では、なぜこんなに苦しいのか。答えを求めてさまざまな場所に行ったり、ふぁみりあに来ているのか。よく考えると、実はお子さんの苦しみを解決するためではなく、自分の苦しみを解決するためではないでしょうか。自分が思い描いていた人生の、未来予想図の当てが外れた所に、苦しみの元があるのかもしれません。

 お釈迦様が残された教えとは、どうしたらこの私が、ありのままの真実の世界に目覚めることができるかという教えで、大きく分けて二つです。諸行無常という教えと、縁起の教えです。

 諸行無常というのは、世界の全ての物事は一瞬も留まることなく、移り変わっているということです。事柄だけではなく、私の心もころころ動くのです。
 子どもは親の期待を裏切り続けます。けれどもそういった経験を通して、親になっていく訳です。今度は自分が親不孝をしたことも知る。子育てにとって無駄なことは何一つ無いと思います。生まれてきた子どもが成長するに従って、親は条件を付けていきます。親の愛情、母性も結局は条件付きなのです。無償の愛は、人間には難しいと思います。
 私の命もそうだし、世の中の価値観や、私の心も何一つ留まることなく、消滅変化している。それが諸行無常という、お釈迦様が目覚められた真実なのです。その変化するものに執着する所に苦しみが生じるのです。私が思い描いた幸せ、将来の設計図、子どもの未来図へ執着している所に、苦しみの源があることを、仏法は教えて下さいます。

 縁起というのは、この一瞬毎に全ての物事は、原因や条件が互いに関わり合って存在しているという真実です。
 今私は苦しい。その苦しみには必ず原因があります。今私が頂いている現実は結果であり、これから先に繋がる原因にもなる。何でこんなに苦しいのか。簡単に言えば、子どもを授かったからです。強いて言えば、私が生まれてきたからです。反対に、今物の見方や考え方を変えれば、結果は変わってくるということです。運命や宿命というのは、仏教にはありません。今一瞬一瞬が結果であり、新しい原因になっている。これが縁起の教えなのです。
 だから、今の状態を見て、これが永遠に続くと思ったら間違いです。今一歩も家から出られないお子さんがずっとこのまま出られないと思うのは、親の勝手な思いであって、何かのきっかけで、何かのご縁で全く違う未来がやって来るわけです。そこに希望が生まれてくるのではないでしょうか。

 なぜ、ひきこもりではいけないのか。それを皆様の心の中に、一つ課題として見つめていただきたい。本当に苦しいのは私なのか、当人なのか。もし当人だったら、今、どういう苦しみを抱えているのだろうと、当人の気持ちになって想像してみる。一つ言えることは、今いる場所がとても安心な避難所だということです。それを皆さんが与えていることは、自信を持って良いのではないでしょうか。
 待つことはとても難しいです。私の息子も葛藤を抱えながら頑張っているようですが、この葛藤、苦しみというのは、当人にとって大切な生きる過程だと思います。それを親が奪い取ることはできません。なぜならば、私が子どもの代わりに当人の人生を生きてあげることはできないからです。その苦しみも悲しみも、喜びも絶望感も、全部当人が生きている証なのです。私たちは、見守ることしかできないかもしれません。
 でも、もう一つできることがあります。それは、今一生懸命苦しみの中で生きているその生き様を、拒絶しないことです。認めらない、受け入れられないことは、一番の苦しみかもしれません。不器用でも、社会に適応できなくても、今一瞬一瞬をお子さんが精一杯生きていることは、紛れもない事実です。

 無償の愛。私たちが初めて親になった時、どんな気持ちだったか。「いいこってどんなこ?」(作:ジーン・モデシット 絵:ロビン・スポワート)という絵本がありますが、これこそが、条件を全く付けない親の愛であり、すなわち阿弥陀様がこの私を育てて下さっている、お慈悲のお心ではないかと思いました。
 最後に、この絵本を読ませていただきます。

ひきこもりとのかかわり 平和を願い 平和に生きる
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