仏教者の活動紹介

故郷の子どもたちに未来を! ーパンニャメッタ子どもの家ー

(ぴっぱら2018年1-2月号掲載)

 近年、経済発展の目覚ましい悠久の国インド。広大な国土に世界第2位の人口を抱えるこの国は、ITなどの分野で世界中に多くの人材を輩出している。その一方で、カースト制度の影響による差別の問題や、多くの人びとが、一日1ドル以下で暮らすと言われ、貧富の格差も未だ解消される兆しが見えない。 あらゆる面で私たちの「普通」では計り知れない、振れ幅の大きな国と言えるだろう。

 今から40年以上前、そんなインドからわずか9歳の少年が親元を離れ、ひとり日本にやってきた。彼の行く先は、これまで多くの高僧が修行を積んだ滋賀県の比叡山延暦寺である。僧堂に住まいながら地元の学校にも通い、現在、三千院の門跡である堀澤祖門さんの元で修行生活を送った。23歳の時には、外国人僧侶史上初の百日回峰行(山中で行う荒行)も達成した。

 「多感な時期を日本で過ごしました。24歳でインドに帰国しましたが、帰るというよりも、まるで旅行に行くような気分でした。母国語をすっかり忘れて、父と話すのも通訳が必要なほどでした」と、僧侶のサンガラトナ・マナケさんは流ちょうな日本語で当時を振り返る。

 インド中部、デカン高原の北部にあるラグプールという街でマナケさんは生まれた。仏教はインドが発祥の地だが、実はこの800年近く、インドにおいて仏教は消滅の危機にあったという。熱心な仏教徒で、カースト制度撤廃の運動を行っていたマナケさんの両親は、インドで大乗仏教を復興させ、平等を説く仏教の教えにのっとって社会改革を進めようと、縁あった堀澤さんに幼いマナケさんを託したのだった。帰国したマナケさんは、仏教を広める拠点としてお寺が必要だということで、多くの支援者の協力を得ながら、日本とインド両国の寄付によって1987年、「禅定林(ぜんじょうりん)」を建立した。仏教の復興と、仏教による社会改革、この二つの命題がマナケさんの肩に掛かっていた。 

 しかし、母国語での会話に不自由し、地域の人と十分なコミュニケーションをとることも難しいという状況に、マナケさんは考え込んでしまった。

 悩む日々を乗り越えてマナケさんが行った活動の一つが、子どもたちへの教育だった。ラグプールは、道路工事などをする出稼ぎ労働者が多く集まっていた。貧しくて学校にも行かれない子どもや、忙しい親にほったらかしにされて劣悪な生活環境にいる子どもが多いことにマナケさんは気づいたのだった。「生活の基盤をなんとか改善してあげたい」と考えたマナケさんは、そうした子どもたちを休日にお寺に集めて、仏教の日曜学校を始めた。

 子どもたちとふれ合いながら、マナケさんは厳しいインド社会の実情を肌で学んだ。休日だけの関わりでは、生活習慣など、せっかく教えたことがなかなか子どもたちに定着しないことに気づいたマナケさんは、恒常的に子どもの世話をしていこうと、子どもたちとともに生活する施設「パンニャメッタ子どもの家」を作った。1991年のことだった。

 ◆「ここがあなたたちの実家」

  スタートした当初は、男の子4人、女の子3人がマナケさんの「子ども」となった。しかし、9歳から親元を離れて生活してきたマナケさんには、実際のところ、子どもの育て方があまりよくわからない。最初の数年間は、炊事をする担当者もおらず、子どもたちの食事、洗濯、掃除などをマナケさんが一人でこなした。

 おもらしをした子の汚れた下着を洗うことも、マナケさんの仕事となった。覚悟の上とはいえ、想像以上に慌ただしい日々。しかし、子どもたちの笑顔を見ると、また頑張ろうという気持ちになった。

 「ストリート・チルドレンとして、ごみを拾って暮らしていた子や、食べることもままならなかった子もいます。ここに来たからには、ありのままに、子どもらしくいられる時間を過ごしてほしい。そして、学歴も大切だけれど、人間が人間らしくあるための教育をしたい」と、マナケさんは語る。

 開園から25年あまり。州の認可も得た現在では、6歳から23歳まで、男女20人ずつが暮らしている。「本当は、18歳を超えるとここを出てもらわなくてはならないのですが、自立までには個人差があるので、大きい子も一緒に暮らしています」と、マナケさん。18歳以上の子の生活費や学費は、マナケさんらが工面している。

 両親がいなかったり、カーストの問題を抱えていたりと、子どもながら、ここに来るまで想像を絶するような苦難を味わってきた子どもたちは、こころの傷を抱えていることが多い。大人の都合に振り回されて、「社会や大人たちが信用できない」と、不信感から極端な行動に出る子どももいる。 「ここがあなたたちの実家で、私が親ですよ」という気持ちで接していると、荒れていた子どもたちも徐々に落ち着いてくる。そして、一緒に暮らす子ども同士は、血はつながらないけれど、だんだんと本当のきょうだいのように支え合う。そうなることが本当に嬉しいと、マナケさんは語る。

 ◆教育や医療を活動の柱として

  現在では、マナケさんの呼びかけによる日本とインド両国からの寄付により、幼稚園や小学校、中学校が設立されている。そこに通っているのはいずれも出稼ぎ労働者の家庭で十分な教育を受けられず放置されていた子どもたちだ。運営は厳しいというが、「教育は子どもたちの未来につながる」というマナケさんの想いがつまった施設だ。 

 さらに最近では、ナグプールやその近郊の医療に欠ける地域で、巡回医療の支援も行っている。乾燥やホコリが多い地域では白内障患者が数多く生まれてしまう。マナケさんらの支援により、これまで5年間で400人もの患者に無料で手術を施すことができた。

 「いろいろな活動で目が回るような忙しさですが、こうしたことができるのも多くの人に支えられているから。感謝しています」と、マナケさんは微笑んだ。

 ◆二つの祖国を見つめて

  今では年のうち3分の1ほどは日本に滞在しているというマナケさん。「子どもの家」をはじめ、社会事業をするにはまだまだ資金が潤沢とは言えない。寄付を募ったり、広報活動を行ったりするのもマナケさんの大切な仕事だ。

 「活動の継続はもちろん大きな目標ですが、モチベーションとなっているのは、仏教を通じて子どもを育てていきたいという想いです。社会事業を行っているというだけではなく、私は布施行だと思ってやっています。行動することが子どもの成長につながり、そして私の行にもなっているのです」と、マナケさん。

 日本で育ち、大乗仏教を学んだインド人僧侶は、社会事業を通じて祖国の人びとに仏教の平等、慈悲の精神を伝えている。マナケさんは、インドから今の日本を見つめて次のように語る。

 「日本では、青少年の事件など、時折考えられないような出来事が起こっています。本来、大切にしなければならない精神の根幹の部分が失われていっているのではないでしょうか。失われているのは仏教も同じです。目先のことを追うのではなく、抜本的に考え直していかなければ」。

 昨今、寺院の存続を考えるあまりに、経営のノウハウばかりを追い求めている寺院もあると聞く。社会の文化的・経済的背景は違えど、困難を抱える子どもたちがいるのは日本も同じである。仏教徒として今、何を目指して行くべきなのか、私たちも自らを外から眺める視点が必要なようだ。

 

孝道山 高野山足湯隊