仏教者の活動紹介

いのちを輝かせて ―大多喜南無道場―

(ぴっぱら2004年9月号掲載)

豊かな自然に包まれて

1時間に1~2本しかない列車に揺られ、紅葉の美しさで有名な養老渓谷を抜けると、「都心から電車で2時間」という言葉からは想像できないほどの豊かな自然に囲まれた駅に降り立つことができる。この小湊鉄道上総中野駅からさらに車で数十分。参道を抜け、開山500年という歴史を感じさせる山門が見えてくれば、そこが日蓮宗妙厳寺だ。
この山門からなら、着物を着た丸坊主の小僧さんが飛び出してきても、きっと不思議には感じないだろう。そして、実はそれは狐が化けていたのです、と言われても、ひょっとしたら納得してしまうかもしれない。それほど人里離れた、静かな寺だ。
敷地1万2000坪という寺の規模は、もはや「あの山からこの山までウチのものです」という状態。それだけの敷地と、そこに生きる豊かな自然は、この寺ではある目的のために活用されている。「いのちの足元を見つめ、生きてあることの神秘と不思議を感じる」場、人間道場として――。妙厳寺は、むしろ「大多喜南無道場」という名で知られる、誰にとっても開かれた道場なのである。

日々是道場

道場と言うと、僧侶などのための厳しい修行の場という印象が強い。しかしこの道場に来るのは、子どもでも大人でも、僧侶でも壇信徒でさえなくてもかまわない。することも、お風呂を沸かす、食事を食べる、掃除をするといった、誰もが毎日していることが中心だ。しかし、この道場で生活してみると、その「当たり前の日々」が決して「当たり前ではない」ことに気づかされる。
薪を拾って薪割りをし、火をおこさなくては、お風呂が沸かせない。食事をするためには、自分で食事を作り、時には山に山菜を採りに行ったりもしなくてはならない。掃除も掃除機などではなく、ほうきと雑巾を手にして、自分の体で掃除をしないときれいにならない......。当たり前のようで、現代の私たちが忘れてしまった「自然な生き方」がここにはある。
その「自然な生活」は、文字通り自然とのかかわりの中で成り立っている。薪も水も山菜も、自然からいただかなくては生きられないのが人間なのだ。常に自然と触れ合い、時には川で遊んだりしながら暮らす。そんな日々の暮らしそのものが「道場」となっている。
こんな日々の暮らしを中心とした、子どもたちのための合宿が、春の「子ども道場」、夏の「山寺留学」と題して毎年開かれている。食事や薪割りなど、日々の暮らしの他に、陶芸や草木染め、味噌や納豆を作るなどのプログラムが毎年企画されている。何がやりたいかを自分たちで決めて過ごす時間などもあり、お寺の道場という言葉が想像させる規律だらけの合宿とは違った、子どもたちの自主性をも重視した内容となっている。

いのちの不思議さを

「『カブトムシの電池が切れたから交換して!』と言う子どもの話を聞いて、ぞっとしたんです。いのちをいのちとしていとおしむ、いのちの不思議を感じる、そんな感性が、子どもにも、その子どもを育てている親や家庭にもなくなっていることに対して、『何かしなければ!』と思い、お寺の自然を活かすことを思いついたんです」
どこか厳しげな風貌に、しかしあくまでも穏やかな笑みを浮かべて話してくれるのが、この道場の主、野坂法行さんだ。かつて自分が育ったこの寺で、自分が体験してきたのと同じように自然に囲まれた生活をすれば、子どもたちはきっといのちの不思議を感じ取ってくれるに違いないと確信した野坂さん。当時同じ千葉県内の寺で住職をしていた無着成恭さんに指導をあおぎながら、1983年夏に子ども道場を開設した。
初回の「子ども道場」は、メディアに報道されたこともあり、定員を大幅に上回る申し込みが殺到。一夏1回の予定を急きょ3回にするほどの盛況ぶりを見せた。その後、対象年齢を広げた春の道場も始め、今年で20周年を迎える。期間も、当初は2泊3日だったものが、それでは物足りないというスタッフ・子ども双方の思いから、次第に長くなり、現在の6泊7日に定着したのだという。

世相に惑わされずに

当初は参加申し込みを断るほどの人気だったものの、一般企業でも自然体験やアウトドアライフを謳ったキャンプが数多く企画されるようになると、参加者数は次第に目減りしていった。何でも自分でやらなくてはならない山寺での「道場」と、子どもはお客様ですというスタンスの企業のサマーキャンプとでは、親も子ども自身もつい、楽なほうを選んでしまいがちなのだろう。
そこでお客である子どもに媚びてしまうこともできたかもしれない。夏の企画が「子ども道場」から「山寺留学」に名前を変更したのもこの頃で、当初より少しだけソフトな印象に変わっている。とは言え、「参加者が減ったからといって社会の風潮に迎合することはないと割り切り、スタート時の理念を失わず、一般のキャンプとお寺での生活の違いやよさをわかってもらうようにしようと努めました」と野坂さんは当時を振り返っている。
そうした努力が実り、かつての怒涛のような人数とは行かないまでも、スタッフの目の届きやすい30人前後の参加者で、今も道場は続いている。

いのちを輝かせて

企業のキャンプと「山寺留学」との違いとは何か。野坂さんは本堂の存在を指摘する。本堂はほとけさまのおうち、ほとけさまとは人間の力の及ばない不思議な力のこと。そう子どもたちに伝え、毎日のおつとめや坐禅・瞑想を通して、自分にはどうしようもできない何かの存在を感じながら、のいのちが何によって支えられているのか、いのちのつながりや輝きを実感できるのだという。
自分のいのちがどうやって成り立っているのかという、宗教の根本とも言うべき問いと向き合う。それはすなわち、自分を見つめ、自分のいのちを輝かせる生き方を見つけ出すことでもある。野坂さんは、宗教こそが子どもたちにそんな生き方を教える役割を担っていると考えている。
「教育基本法では、学校で宗教教育をしてはいけないと言っていますが、同時に宗教を教育上尊重しなさいとも言っています。つまり、人間形成の上でもっとも大切な宗教教育に国家権力は手出しをしません、家庭や宗教者にまかせます、といっているのです」
学校教育と対等の立場で、子どもたちの教育をまかされている。そんな思いが、今年も野坂さんを子どもたちと向き合わせている。(内)

(ぴっぱら2004年9月号掲載)
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