家庭・暮らし

問うてみませんか?家庭の場―子どもが生活体験から学ぶこと―

ぴっぱら2010年9-10月号掲載
大正大学名誉教授 吉澤英子

◆いま、家庭は?

皆さんは、家庭に対してどんなイメージをお持ちでしょうか。家庭とは、少なくとも二つの条件を整えていることが必須といえましょう。一つには「安心して生活が営める場である」ということ。もう一つは「安定した家族関係が保たれて、心的な居場所がある」ということです。

新宿駅から東京都庁に向うトンネルは、今は整備されてとてもきれいになっています。かつてはホームレス状態の人たちが大勢おり、中には、母子のホームレスとなった人たちもいました。その関係は、たとえ親密な親子であっても「家庭」とは言いません。外敵から守られる場所があってこその「家庭」なのです。

家庭には本当にたくさんの機能があります。中でも、男女の結びつきが基本となる性的機能、そして、子どもを産み育てるという生殖機能は固有の機能です。

また、家庭を営むためにはお金が必要ですから、経済機能も備わっていなければなりません。この中には、生産と消費という行動が含まれています。そのほかには、教育、保護、休息、娯楽、宗教的機能(家の特色)などが内包されていると考えられます。

現在では、経済機能の中でも、特に「消費」の機能が拡大しているように見えます。物質的価値観が強まり、いわば親の見栄が膨らんできているのではないでしょうか。「消費」が膨らみすぎると営みのバランスがくずれ、家庭内にトラブルが起こりやすくなります。

そして、「教育」や「保護」といった機能は、いまや学校や社会福祉施設など、家庭外にゆだねられるようになってきました。施設などは、昔は孤児のためのものでしたが、現在では虐待などの問題のある家庭が増えて、両親がそろっていても家庭での両親による養育機能が果せず、そこを利用せざるを得ないというケースが後をたちません。「休息」についても、かつてはあたり前だった一家団欒()という状況が、いまはすっかり失われているようです。

以上のように、本来あった家庭の機能が、現在ではかなり変化してしまっています。同様に、子育てに関する価値観も、子ども側に立ってのものではなく、以前とは大分変わってきました。

◆"何気なく"という行為ができる子ども

社会を作ってきたのは私たち大人ですので、現状の子どもたちの問題現象を「なんとかしなきゃ」と思いますが、これはたいへん難しい問題です。戦後の教育では「個」の確立が叫ばれ、「対等であれ」ということが強調されてきました。対等というのは、横並びということです。

親の権限はあまりなくなり、目上の人を敬うという、かつて当たり前だったけじめがすっかり失われてしまいました。家庭での親との関わり方が、外での日常生活の態度にも如実に表れてきています。

大きくなって、集団の中で人との関わりがうまくできる子どもと、うまくいかずに自分の中にこもってしまう子どもの現象が顕著になってきています。

そうした子どもたちを見るたびに、「家庭での生活体験から学ぶべきことは、一体何なのか」と思わされます。家庭が安定し、居場所として機能している家庭、また家族関係が健全に保たれている家庭で過ごしてきた子どもは、社会の中で、やはり何かが違うようです。

一般的に言うと、そうした子は思いやりがあり、人の心をおもんばかって〝何気なく〞他人に援助の手を差し伸べることができるようです。人間は、"何気なく"手が差し伸べられて、"何気なく"言葉をかけることができる、「何気なく」自然体であるということが大切なのです。家庭の機能を考える上で、そこをきめ細かくできるようにするためには、子どもたちにどのように関わっていけばよいのか、という問いかけを申し上げたいのです。

◆家庭こそが社会生活の「学習の場」

思春期前の子どもにとって、家庭はどういう学習の場となっているのでしょうか。これも、いくつかに分類することができます。大きく分けて、一つには「対人関係の緩和の機能」、二つ目は、「愛情、学習の最初の場としての機能」です。私が施設で子どもたちと関わってきた際に経験したところによると、愛されたことのない子どもは、人を愛するということができないのです。いわば、人に接するを知らないのです。

本来、家庭は愛情を学習する場であるにもかかわらず、最近では学習するチャンスがないという子どもたちも多く、対人関係のマイナス要因を逆に強化してしまっているような事例も多いのです。

そして三つ目は、「失敗が許される場としての機能」です。人間は失敗をするものです。成績が悪かったのは、勉強しなかったからだ、お前が悪いんだ......そういった言葉は、思春期前の子どもたちにはとてもきついものです。悪い点数だったとしても、ひとまずそれを親が受け止めるということが大切です。

「今回は悪かったけど、やればできるようになるね、一緒に考えていこうね、頑張ろうね」......そういう視点を持つことは親にとっては意外に難しいものですが、「失敗が許される」ことは、子どものこころの安定には、たいへん大切な要素です。受け止められてこそ、次のステップにもつながっていきます。人間は、やはり誰かに認められたいし、ほめられたいものです。

こうして「受け止められた」という経験がある子は、見ているとやはり違います。いじめの問題等も、こうしたこととまったく無関係ではありません。人との関わりの中で子どもは成長するものですが、特に、基本となる親子の関係を大切にしなければならないのではないかと思います。

世の中で、孤独を愛するという人も確かにいます。しかし、本来は孤独を愛することはできません。一人旅は、帰るところがあるから楽しめるのであって、社会の中でひとりぼっちという状態は、人間にとってつらいはずです。

昨今では、隣近所や勤め先の関係、そして親子の縁までわざわざ断ち切って「わずらわしいから」とひとりで暮らす子どもたちも多いのです。しかし、内実はとても不安定なはずです。

人間は、自分が「求められているのか」「役立っているのか」をいつも気にしているものです。自分の存在が実感でき、人との関わりで何か役に立っているという機会を自認したとき、いわば役割が実感できます。自分がなくてはならない存在であることを自覚することは、将来、自分なりの生活を営む土台となるはずです。その源は、家庭における家族関係の支えであると考えられます。まず家庭において、子どもにとって安定した自分の「場」があるということが必要です。

たとえばアメリカのある地域では、小学生くらいの時から、子どもたちが新聞配達を、当番のようにすることになっていました。配達は、その地域に住む子どもたちの役割として行われているのです。「地域住民としての自覚をもつ」ということを、こんなところで学んでいるわけです。

◆努力と努力が実るとき

私はよく家庭相談を受けてきましたが、ある母親からこんな相談を受けたことがあります。高校へは行っていないが、そのくらいの年頃の娘がいる。毎日、娘になぐられたり蹴られたりして、それが近隣でも評判になってしまっている、どうしたらよいかという相談でした。

話を聞いていくと、その娘は、色々なことには反発するものの、時々突如として「おかあちゃ〜ん」と言って抱き付きにも来るというのです。「この子、おかしくなったのでは?と母親は思い、接し方が、わが娘ながらわからない」というのです。

そこで私はすかさず、「そのまま抱きしめてあげたら?」と言いました。母親は納得がいかない様子で帰ってしまいましたが、しばらくしてまたその母親はやってきました。その後も相変わらず暴力は繰り返されていますが、ある日、思い切って抱きしめてみた、そうしたら、娘は本当にびっくりした表情をした、と言うのです。

よくよく聞いてみたら、娘が小さい頃、たとえば泣き止まなかったり言うことを聞かなかったりした時などは、お風呂の中に放り込んだりと、あと一歩で虐待のようなこともしていたそうです。

だから、私は、子どもの行為の背景には、かならずサインがある、子どもは気付いて欲しいという思いを行動に表しているのだというようなことを話しましたら、「抱きしめたらと言われた、その意味がようやくわかった」と言って母親は帰って行きました。いわば母親自身の気づきが大切なのだと思われます。そうした状況の背景には、必ず原因があり、子どものメッセージが隠されているということをお伝えしていきたいのです。

私たちは、考えていることすべてを人に示すことはできません。逆を考えると悲しいかな、相手のすべてを理解することはできないのです。しかし、理解しようとすること、相手の欲求を知ろうと「努力」する姿勢をもつことが、まず大切ではないでしょうか。

私は、地域の子育て支援センターなどでそうした話をすることがありますが、今の母親たちは、時代のせいでしょうか、自分本位な考え方の人が多いのです。口では子どものためと言っていても、そういう人は実のところ、「最終的には自分が困るから子どもを直したい、よくしたい」と考えているのです。

人と人との間では、ものを言わずとも思いが伝わることがあります(以心伝心)。子どもが何を言いたいのか、自分は相手の何をわかろうとしたいのかと、相互にわかろうと努力しあうことが大切なのです。自分のそうした気持ちは、かならず相手に伝わります。

「理解」とは、互いのそうした努力と努力の実りを実感しあえた時、はじめてできるものと思われます。子どもと大人との関係では、相互の理解しようとする努力と努力の実りが人を育てるのです。

◆生活の土台は家庭生活から

私たちが人に対し行動することについて考えてみると、まず相手への伝え方として「表現の選択」をします。そして実際に行動(表現)し、その結果(反応)を確認するという一連のことを、毎回行っているのです。その際、実際に行動した後、相手がどんな反応を示したのか、そこを知り、確かめていくことがとても大切なのです。

これは行動パターンとして一生涯つながり、その人の対人関係性のひとつの土台となっていきます。子ども時代に、家庭の中でこうした雛形がたくさん育まれることが望ましいと思われます。

子どもの健全育成ということについて考えた時、対症療法といわれるように、日本では、起きてしまった問題について研究がなされることが多いものですが、外国では「健全とは何か?」というところから、問題を未然に防ぐ方法を考えていくことが一般的な傾向です。

健全育成に大切なこととして、ひとつの研究結果があります。柱となるものの第一には家庭環境、そして、とりわけ「同性の親の社会的立場(活動)」や「兄弟数」などが、大切であるとして挙げられています。同性の親の......とは、子どもは親の後姿を見ているということでしょう。また、兄弟は4人以上が望ましいそうです。多人数にもまれることが理想的ということかもしれません。

最近では「個」の確立、つまり、「私は私、誰の犠牲にもなりたくない」という考え方があまりに進んでしまったせいか、家族関係がますます希薄になっているように思います。相談を受けていても、「殺してしまいたい」「消してしまいたい」などと物騒な、お金や物をめぐる親子関係間の争いが非常に多くなってきています。幼少期だから、青年期だからということだけではなく、それをどう解決していくかは一生涯の問題であり、努力の積み重ねの上でこそ成り立つものなのです。

生活の土台は家庭生活の中にあることを、今、改めて問うていきたいと思います。(6月12日、7月3日『親学ふぁみりあ』講演より収録)