社会とかかわる仏教

いま、そこにある困窮ー「コロナ禍」で何が必要なのかー

臨床仏教研究所研究員・ひとさじの会事務局長 吉水 岳彦

今年5月、「こんばんは。ひとさじの会といいます。お弁当を持ってきたのですが、いかがでしょうか」と、わたしは上野公園のベンチに寝ている人に声をかけました。
 「えっ......。もらってもいいんですか?」と、男性は驚いた顔でわたしの顔や姿を確認します。「もちろんです。あと、袋にはマスクもありますので、どうぞお使いくださいませ」と言葉を続けると、50代後半と思しきその男性は、すぐに袋を開けて食べ始めました。よほどお腹がすいていたのでしょう。お弁当を食べてもらいながら、お身体の具合や路上に出るまでのことなどを少しずつうかがうと、いまの困りごとを一つひとつ語り始めました。
 ひとさじの会は、仏教系の生活困窮者支援団体です。月に2回、路上生活者へ手作りのおにぎりをお渡ししながら、困りごとを聴いて歩く活動などを行ってきました。コロナ禍の中では、大人数での炊き出しを行えず、ボランティアの募集を停止して弁当を購入し、スタッフ数名で、東京の浅草・山谷・上野地域の路上に生活する約200名に弁当とマスクを配布する活動を続けています。
 また、緊急事態宣言以降、7月までは、他団体の炊き出し休止にともない、路上生活者への食事の提供が減少したことを受けて、毎週活動しました。夜回りでは、ネットカフェ難民となっていた上に、緊急事態宣言による営業自粛でネットカフェにもいられなくなり、路上に出ざるをえない人や、外出自粛の影響で仕事を失った人などに多く出会いました。
 冒頭の男性も、新型コロナウイルス感染拡大の影響で、勤務先の旅行会社の仕事が激減し、会社が立ち行かなくなって解雇されたといいます。会社の社長からは「また会社が立て直せるようになったら戻ってきてもらうから」と言われていたものの、すでに3か月が経過し、家賃滞納から部屋を追い出され、ネットカフェに暮らすことになりましたが、同様の理由でネットカフェにもいられなくなり、ついに路上に出ることになったのでした。
 ひとさじの会のメンバーには、姿の僧侶も含まれています。そんな姿を見て、当初は宗教関係者だと思って緊張したものの、ゆっくりとお話をしている間に、偶然にも彼が子ども時代に遊び場にしていたお寺と同じ宗派の僧侶であることがわかって、安心の表情を見せてくれました。お弁当を食べ終わった彼は、寝床を片付け、わたしたちと共に上野公園を離れ、ひとさじの会で用意したビジネスホテルの一室に宿泊してくれました。翌日、シャワーを浴びて睡眠をとった彼は笑顔で出迎えてくれて、一緒に生活相談の場に臨み、生活再建の道に進んだのでした。

◆「路上生活者」になるまで
 「路上生活者」や「ホームレス」と聞くと、怠けてきた人や汚れている人、働くのが嫌な人、お酒に溺れている人など、負のイメージと共に思い浮かべるかもしれません。しかし、彼らは「ダメな人」であったわけでもなければ、汚れた格好をしていたいと思っているわけでもありません。人としては、私たちとまったく同じです。ただ、遇う縁が違っただけのことなのでしょう。
 「妻と離婚して、家や財産をすべてくれてやった」と語る人もいれば、かけがえのない家族を喪って何も手につかなくなり、やがて家も失った人もいます。
 会社が倒産した後に、年齢的に再就職が難しかった人もいます。養護施設で育った若者が派遣の仕事を失うときには、同時に会社の寮も出なければならず、頼れる人もありません。そうして行き場を失って路上に寝ている20代の若者もいます。
 その他、なんらかの障がいを抱えていることで、なかなか人間関係をうまく構築することができなくて、仕事を失う人もいます。仕事を失ってすぐに、誰かに頼ることができたならば、きっと住所を失わずに済んだのでしょう。しかし、路上生活を経験した方々からのお話を聴くと、「本当に苦しい時に助けてとお願いできる人がいなかった」「頼って迷惑をかけてはいけないと思った」などの言葉を耳にします。
 他人に自分の生活を助けてもらおうと頼ることは、なかなか難しいことです。まして、もともと身寄りがなかったならば、なおのこと難しいことでしょう。そして、一度住所を失ってしまうと、簡単には仕事に就くこともできず、抜け出すことはより困難になってゆくのです。
 そんななか、最後のセーフティーネットと呼ばれる生活保護制度は、本来、誰もが利用できる権利を有しています。ところが、利用者への強い偏見から、利用をためらう人も多いのが現状です。そのため、働くことが困難な高齢者の中には、「生活保護を受給することは恥ずかしいことだ」という意識から、制度の利用をためらい、医療を受けることをあきらめ、我慢し続ける人もおられます。なんとか生活費を浮かそうと、暖房や冷房の利用を控えるなどして、身体を壊してしまう人もいらっしゃいます。
 本当は、憲法第25条に「すべての国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とあり、それに基づく最低生活費を基準として、低年金で苦しい生活をしている場合には、足りない分を生活保護として利用することができます。また高齢者だけでなく、精神的、身体的な不調から働くことができない場合なども、この制度を利用することができます。もちろん、病気やけがなどで一時的に働けない方が、心身を回復させる間だけ生活保護費を利用して、健康を取り戻した後に生活保護を打ち切ることも可能です。生活保護は、誰もが困ったときに利用できる、心強い大切な制度といえます。
 しかし、残念なことに、生活保護の利用を抑制したい行政側の思惑もあり、役所に相談に行っても「水際作戦」といって、「書類が足りない」「65歳以上でないと申請できない」などと言って追い返してしまう、心ない職員が存在するのも事実です。路上生活者の中には、役所に何度も相談しても申請が進まないのであきらめてしまったという方もいらっしゃいます。コロナ禍は、そのような平生の行政の対応の問題を顕在化させることにもなりました。

◆生活困窮の苦しみがもたらすもの
 コロナ禍では、雇い止めや出勤の制限によって収入が激減するという事態も起きており、住宅ローンを支払うことができなくなり、家を失う人も出てきています。飲食店の倒産が続くことで、パートの仕事を失ったシングルマザーが困窮しているというお話も耳にします。そうした生活困窮世帯の増加は、無料で食品を配布する活動に集まる家庭が増加傾向にあることからも感じとれます。
 さらに、在日外国人においては、働き口が減った上、コロナ禍で帰国が困難になったことから、仕事も住まいもお金もなく、困窮をきわめている状況にあります。4月末に行ったひとさじの会のお弁当配布の際にも、行き場を失って路上にたたずむ在日外国人に出会うことがありました。また、働くところも、住むところも、食べるものもなくて、「僕を逮捕してください」と警察署に助けを求めた外国籍の人もおりました。
 いまやあらゆる職種の人たちが、生活の先行きに不安を覚えているのではないでしょうか。コロナ禍は、そんな誰もが家を失うかもしれない状況を生み出したのです。路上で生活する人たちのことは、決して他人事ではないのです。
また、まことに悲しいことですが、仕事や家族などという大切な存在を喪って「普通の生活」を維持することができなくなったとき、路上で暮らす以前に、自ら死を選ぶ人もいます。経済的な苦悩は、周囲に相談しにくいものでもあるため、自ら他者を遠ざけて孤立してしまう状況を作り出してしまうことがあります。コロナ禍では、そうした傾向を一層強めていくことが予想されます。
 孤立して独り悩む苦しさは、生きる力を弱め、奪い取ることさえあります。そのため、生活困窮や大きな喪失をきっかけにして、死んでしまった方がましだと思ってしまうくらいに生きていくのがつらくなり、自らいのちを断とうとしてしまう人も、ますます増えてゆくことでしょう。
 それと同時に、社会から孤立してゆく苦しさや、不遇な状況に対するやり場のない感情を身近な他者に向けたときには、家庭内での暴力や虐待などを引き起こすこともあります。本来、あってはならぬことですが、そんな子どものいのちを著しく脅かす状況が、いまも増えつつあることを危惧しています。このように、生活困窮の苦しみは、社会のあらゆる問題の根底に横たわり、多くのいのちを脅かす要因でもあるのです。

◆声をかけつづけること
 上述のように経済的困窮は、自分の努力が足りなかったことを責められるのではないか、はたまた、他人に迷惑をかけてはいけないとの思いから、人間関係の困窮に至りやすいものです。くわえて、個人や家庭内に問題があれば、より話しにくくなっていきます。だからこそ、誰かが悩んでいたり、姿を見せなくなって気になったりしたときには、自ら声をかけに行くことが大切なのです。
 ひとさじの会の活動で行ってきたのは、路上に寝ている人や、大きな荷物をもって駅や公園にたたずむ人に、ただ声をかけてゆくことだけです。いまは誰もが路上に出ることになってもおかしくない世の中であり、白いシャツやジャケット姿で路上生活をしている人もいらっしゃいます。そのため、まことに申し訳ないことに、時には間違えて声をおかけすることもあります。でも、それは謝ればよいことです。
 また、「俺は大丈夫だから放っておいてくれ!」とおっしゃられる方もいます。でも心配なので、おにぎりは渡せなくても、かかわりは切らぬようにいま必要なことを聞きにゆきます。そうして何度も何度も足を運ぶうちに、「実は......」と、目が見えなくなってきていたり、歩くのが難しくなってきたりしていることを少しずつお話しくださり、自ら必要に応じて生活保護制度を利用し、生活を変えてゆく人もいらっしゃるのです。
 声をかけて、断られたり、思い違いだったり、いま必要ないと言われることには怖さもあります。しかし、関係性をつなぎとめておけるように、声をかけることだけはやめたくないと思うのです。たとえば、人が起きようとする場合、寝ている状態から身体を起こす時間が必要かもしれませんし、心の準備が必要かもしれません。でも、すぐ目の前に差し出された手があったならば、その手を頼りに、すぐに身体を起こしてみようとも思えるのです。
 路上生活者に限らず、いまは本当に苦しくても声を上げられない人もいらっしゃるに違いありません。まずは一人で抱え込まないでもいいように、声をかけることが必要なのです。相手の苦しさや生活の困難のすべてを自分一人で解決することはできません。必要ならば、他人に手伝ってもらえばよいのです。
 仏教学者の増谷文雄氏が、慈しみを「active interest(積極的興味)」であるとも説明していましたが、まずは少しでも心配な人がいたら、少しだけ勇気をだして、その人のいまのありのままの気持ちを聴かせてもらおうと、自分から声をかけてゆくことが、慈しみというものなのかもしれません。