社会とかかわる仏教

障がいの有無を超え、支えあって生きる


 去る7月26日、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、重度の障がいを持つ入所者を狙った残忍な殺傷事件が発生しました。

 逮捕時にうすら笑いを浮かべ、その後の取り調べに対しても、冷静さを保ったまま一貫して障がい者への憎悪を口にしているという犯人の青年の有りように、言葉を失った人は少なくないことでしょう。

 全青協会員であり、大分市内で浄土宗法然寺の住職を務めながら、長年、知的障がい者とその家族への支援を続けてきた丹羽一誠さんに、現在の想いを綴っていただきました。
 

 相模原市の知的障害者入所施設で、元施設職員の青年によって19人の入居者が刺殺され、27人が負傷した卑劣で残忍な事件が起こり、社会を震撼させた。いのちを奪われた方々の気中を思うと、憤りと防げなかったことへの無念さが残る。事件発覚後、自坊にて犠牲者に向けた追善回向を行った。
 この事件の背景には障がい者に対する偏見や差別意識などの思想があったと言われ、大きな課題として挙げられている。事件現場は福祉現場だが、決して福祉のみで定めて考えられる課題ではないと述べたい。
 このような悲惨な事件が二度と起こらないためにも、私たちはそれぞれの立場でこの課題について見直すべきではないかと改めて思う。
 わが国では既に国際的な障害者権利条約の批准をはじめ、国内においては障害者虐待防止法や障害者差別禁止法が施行され、障がいのある方々の「人権の尊重」や「個人の尊厳」を社会参加へ結びつける施策が講じられてきた。
 この動きの背景には、障がいがあるというだけで社会とのつながりを制限されてきた過去があり、長い年月を経て、ようやく社会は障がい者に対する偏見を是正してきたのである。
 一方、元職員の青年の言動からは「障がい者がいなくなればいいと思った」、「障がい者が安楽死できる世界を望む」など、〝いのち〟の価値を否定し、優生思想を独善的に捉えた異常な考え方が明らかとなった。
 社会が、障がいがあってもなくても、子どもからお年寄りまで社会の一員として共生する世界を築こうと取り組んできている矢先に、だもってこうした誤った個人思想に身を任せ、卑劣な事件が生じてしまったことは残念でならない。
 そして、またしても社会に守られるべき方々が傷ついてしまったことが深く悔やまれる。
 私は自坊とは別に、1981年の国際障害者年に、知的障がいの方々を支援するために社会福祉法人「暁雲福祉会」を設立し、35年間この現場に携わっている。
 共に生きるということは「障がい」のあるなしという価値観に左右されずに、お互いが「人間」として認め合い、支え合い、成長するとした流れに帰結すると信じている。
 しくも僧侶として人々の死生観に教化の過程で携わる一方で、まさに障がいがあってもしく、誇らしく、明るく生きようとする一人ひとりの利用者と向き合う福祉職を兼ねるなかで、今回の青年の言動は人の生きる尊厳を脅かし、本当に〝いのち〟を軽視する結果を招いたことに他ならないと受け止める。
 「障がい者のことについて決める時は、私たち抜きに語らないで欲しい」という当事者たちの声が伝わってくる。
 世の中にいなくてもよい人の存在はない。誰もが必要であり、共に生き生かされていることに、その存在の価値は高められていくのである。

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