社会とかかわる仏教

■インタビュー 子どもや若者に伝えたいこと

戦後70年――今年も暑い夏が再び訪れようとしている。戦争を経験した世代が減っていく一方で、その記憶を少しでも若い世代に伝えたいという人がいる。弁護士、杉浦正健さんもその一人だ。「二度とあのような戦争をしてはならない」と語る杉浦さん。
終戦のとき11歳だった少年は何を思い、戦火に翻弄されるふるさとを見つめていたのだろうか。そしていま、子どもたちや若者に伝えたいこととは

杉浦正健さん
1934年愛知県岡崎市生まれ。東京大学卒業後、会社員を経て弁護士となる。1986年衆院議員総選挙で初当選。6期20年にわたり政府の要職を務める。第77
代法務大臣の任期中には仏教徒として死刑反対の立場をとった。(一財)杉浦ブラムチャリヤ代表理事。全青協監事。
sugiura.JPG

●終戦の日のこと

――杉浦さんは、昨年末『あの戦争は何だったのか』(文藝春秋社刊)というご本を出版されました。

杉浦:終戦の日、ラジオで玉音放送を聞きました。性能が悪くて、天皇陛下の声はとぎれとぎれでしたが、その声をいまでもはっきりと覚えています。当時僕は11歳。「戦争には絶対に負けることがない」と大人たちに聞かされていたので、ショックで頭の中が真っ白になりました。
戦争末期になって、日本は竹やりで本土決戦を戦おうとしていたんです。確かに当時、どこの町にもあった国防婦人会で、女性たちが集まって竹やりの訓練をしていました。負けてから考えてみると、信じられない、本当にバカなことです。勝てるわけがない。降伏すればいいのに降伏しない。

――「捕まるくらいなら、死を選んだ方がいい」と奨励されていたそうですね。

杉浦:ああいう観念は、どこから出てきたんでしょうね。戦争というのは、国家が国民の命を虫けらみたいに思っているってことなんですよ。当時の新聞なんかは、戦争礼賛一色です。それなのに、終戦の次の日に学校に行けば急に民主主義だっていうんですから......。

だから僕は、いったいあの戦争は何だったんだろうということを、この歳までずっと考え続けてきました。それで、少しでもその思いを形にして残しておきたいと思い本にまとめたのです。何で、戦争しなければならなかったのか。いまでも、その疑問は完全に氷解してはいません。

●忘れられない真っ赤な空

――そうした思いを、戦争を体験していない世代に伝えようと思われたのですね。ご出身は愛知県の岡崎市だそうですが、戦時中、ふるさとの方はいかがだったのでしょうか。

杉浦:終戦間際の7月19日に、岡崎でも大空襲がありました。うちの集落は無事でしたが、あの光景は忘れられません。対岸の町も空も、真っ赤に燃え上がっていました。
焼夷弾からの火炎はひらひらと、あちこちに舞ってきました。農村でどの家もわらぶき屋根でしたから、火がついたらたいへんです。大人たちが一生懸命消火していました。
翌日見てみると、植えたばかりの田んぼが一面、丸焼けになっていました。そして焼夷弾で穴だらけにもなっていました。このとき、市内だけで1000人以上の死者が出たといいます。

――見慣れたふるさとの町が焼け野原となるのはショックですね。

杉浦:軍事施設もない田舎でさえこんな目にあうのだから、日本はどうなるのだろう。本当に勝てるかな......とそのとき思いましたね。農村といえど、食べるものも足りませんから、近所のみんなで分け合って食べていました。

――子どもたちはどうしていたのですか?

杉浦:小学校には毎日通っていました。でも、集団下校の途中でアメリカの飛行機から機銃掃射(機関銃による攻撃)を受けたことがあります。低空で迫ってきたので、パイロットの顔がはっきり見えました。ちりぢりに逃げて難を逃れましたが、生きた心地がしなかったですね。
終戦後には、先生の指示で教科書を墨で塗りつぶしました。国語、歴史、地理、修身などには軍国主義的な表現が多くてそのままでは使えなかったからです。教科書はみるみる真っ黒になっていきました。教科書も新しいものなどありませんから、みんな先輩たちのお古でした。

――いまでは考えられないような状況ですね。戦争が終わり、急に色々なことが変わったのですね。

杉浦:終戦になると進駐軍が町にやって来ました。アメリカ兵は子どもたちには優しかった。よくチョコを撒いてくれました。仲間がみんな群がるから「あさましいことするな」なんて言いながら、「俺にもよこせ」なんてね(笑)。戦争に勝ったのに乱暴なことはせず、凄い人たちだと思いました。

●戦争だけはいけない

――戦争を経験された杉浦さんから見て、今の若い世代や子どもたちについてはどのように感じられますか。

杉浦:平和のなかで一生が過ごせるなら、こんなに幸せなことはないと思いますよ。いまは栓をひねればお湯が出て、水も電気も使い放題。当時を考えると、今は極楽ですよ。地獄と極楽ほど違う。   
戦争を経験していない世代の人たちに、恵まれていることを解れというのは難しいことです。だからこそ、私たちの経験や思ってきたことを少しでも伝えられればと思っています。やはり戦争はいけない。戦争だけは、繰り返してはいけません。
安倍首相のお父さんの晋太郎先生は、政治の世界でずいぶんとお世話になった方ですが、当時は航空隊に所属して八丈島で終戦を迎えられたそうです。「戦争で他国にずいぶん迷惑をかけた。彼らのために、二度とこういう戦争を起こしちゃいかん」と、常々言っておられました。全く同感です。

――今の首相の方針を見ると、あまりそういう思いは感じられませんね。

杉浦:もしそうだとすると、首相も戦後生まれですから。戦争を体験していないことが影響しているとは、言えるかもしれませんね。

●子どもや若者に伝えたいこと

――お話は変わりますが、杉浦さんのおばあさまは、熱心な仏教信徒であられたそうですね。杉浦さんもその影響を強く受けられたとか。

杉浦:「お米にも動物にも、いのちをいただいているんだよ」というのが、祖母の教えです。祖母は、蚊もハエも殺さない人でした。働き者で、いつも微笑みを絶やさない優しい人でした。お互いにどこかで関わり合って、生かし合って生きているという感覚を、教えられたのです。日本人の遺伝子の中には、仏教が組み込まれているんですね。
いま、公教育で仏教は教えられないでしょう。だからそういう大切なことを、お寺がもうちょっと頑張って教えて下さればなあと思います。お寺は全国に8万近くあると言われているのですから。

――本当ですね。公教育ではできない、いのちの教育や、平和に向けての教育ができるといいですね。杉浦さんは、個人的に財団を立ち上げられて、東北の被災地などで子どものための支援をなさっていますね。

杉浦:政治の世界を引退した後ですが、先祖から相続した土地の一部が公用に使われて、まとまったお金ができたんです。先祖が守ってきた土地なので、個人のために使うべきではないと思って、それをもとに基金を立ち上げたのがはじまりです。
日本では東北の被災地の高校生と、ふるさと岡崎のごく一部の高校生に、月1万円の返還不要の奨学金を提供しています。海外ではスリランカで子どもの養護施設を支援したり、フィリピンでも活動しています。本当にささやかですが、若い世代、とくに子どものために自分が受けてきたご恩を返せればいいなと思っています。

――ご恩をお返しするとは、私たち皆が心がけていかなくてはならないことです。最後に、歴史の教訓として杉浦さんが子どもや若い世代に伝えたいことを教えていただけますか。

杉浦:二度とあのような戦争をしてはいけないということ。そして今の憲法の原則を守って、平和主義、民主主義、基本的人権、国際主義の四つの原則を大切にしてもらいたいと思います。国も国民も、いつも他の国を案じる気持ちを忘れてはいけません。
また、地球上のすべてのものが互いに関わりあって存在していることに思いを向けて、とりわけ人のいのちを尊ぶことを忘れないでほしいですね。

――ありがとうございました。