社会とかかわる仏教

こころ安らぐ社会のためにー「臨床仏教」の意義とケア活動

◆現代社会にある苦しみとは

東京・築地本願寺の一室に、中高年の女性や夫婦連れが次々と集まってきました。月に一度予定されているセミナー「寺子屋ふぁみりあ」が本日、開かれようとしているのです。これは「ひきこもり状態にある方のご家族のためのセミナー」として開催され、毎回ゲスト講師のお話を聴いて学びながら、なかなか気軽に話すことのできない子どもに関する自身の悩みなど、こころの内を分かち合うための会です。

サポートするのは浄土真宗本願寺派の僧侶と、全青協のスタッフを含めて15人ほどですが、そのうちの5人は全青協がすすめている、社会のさまざまな苦悩に寄り添うことのできる、仏教者の養成プログラムの実習生です。

この「臨床仏教師養成プログラム」は、不登校・ひきこもり、虐待をはじめとする子どもや青少年の問題、そして自死問題や「看取り」、高齢者や被災した方々が抱える問題など、現代のあらゆる生老病死の課題に寄り添う仏教者を養成するためのものです。全青協に附属する臨床仏教研究所が主体となり、一昨年の5月からスタートしました。

「臨床仏教」という言葉は、聞き慣れないと感じる方も多いかもしれませんが、その通り、もともと存在する言葉ではありません。臨床というと、臨床医、臨床試験など、医療現場でよく耳にする印象がありますが、ここでは「生きていくうえでのあらゆる苦しみの現場」を指します。

つまり臨床仏教師とは、自分の信に基づいて、人の誕生から旅立ちまで、精神面でのトータルケアを行うことのできる専門家なのです。

専門家となれば、まずは世にある課題や問題をよく知らなくてはなりません。第1ステップの座学(30時間)では、自死防止、過疎化・孤立化、若者の問題、ターミナルケアなどの10座が組まれ、公開講座として広く参加が呼びかけられました。

次のステップはワークショップを中心とした講座(40時間)で、対人関係の場面を想定したケア技術の習得を目指します。そして、最終ステップが臨床実習研修(100時間以上)です。

児童養護施設やホームレス支援団体、病院の緩和ケア病棟など、実習を受ける方自身が取り組みたいフィールドを選び、施設や団体に臨床実習をお願いすることとなります。この「寺子屋ふぁみりあ」も、その現場の一つです。

この日のセミナーの終了後には、スタッフと実習生による振り返りが行われました。「お寺の雰囲気の中でこころが落ち着きました」「今日はこころが楽になって帰れます」という参加者がいた一方で、「相談に行った先の僧侶から、ひきこもりは先祖への供養が足りないからだと言われ不安です」と語る参加者もいました。これは悩みを持つ方々への共感力が足りない僧侶による、ケア対象者への二次被害と言って良いでしょう。

指導役のスタッフは「答えを提示するのではなく、相手の悩みに共感し寄り添うことこそが臨床仏教師の役割です」と繰り返し実習生に伝えます。また、「自分の宗教や宗派にとどまらず、他宗派・他宗教についても広い知識が必要で、知ろうという努力をして下さい」と実習生に要望しました。

◆第一期の養成プログラムを終えて

第1ステップの公開講座は、およそ100人が受講しました。そのうちお坊さんを含めたお寺の関係者は8割ほど。残る2割は、こうした活動に関心のあるサラリーマンや医療従事者などの一般の方でした。第2ステップのワークショップ課程に進むには、8割以上の公開講座への出席とレポート課題などが課されます。考査を経た後、39名の方が第2ステップへと進みました。

第2ステップでは、仏教カウンセリングや傾聴法、グリーフ(悲嘆)ケアやトラウマ(心的外傷)ケアに関するスキルを実践方式で学びます。講座の最終段階では、実際のケア場面を想定して互いに役割を演じあう訓練法である、ロールプレイングが行われます。

ここでは、お坊さんならではの〝特性〞が、会話に出てしまうこともしばしばでした。終末期の患者さんから「私はいつ死ぬのでしょう」「会社をここまで大きくして、これからって時に、どうして私は死ななければならないのですか......」と訊かれたときに、「それは仏教では諸行無常と言いまして......」「私のところの宗派では......」と、ついそのような答えを提示してしまいます。

しかし、アドバイスでは患者さんのこころは安らぎません。患者さんがまず求めることは、苦しい自身のこころの内を聴いてもらい寄り添ってもらうことなのです。共感なくしては、アドバイスや答えは相手のこころをさらに傷つけることになりかねません。普段から、お寺でお檀家さんやご門徒さんの話をたくさん聞いていると自信を持っているような方ほど、実際の臨床の現場にそぐわないとは皮肉なことです。

ロールプレイングのような練習を重ねていくことで、自身の会話の「クセ」がわかったという受講者も多くいました。普段の会話では意識することが難しいものですが、対人職、つまり教師や保育士、看護士、介護士などの方にとっても、こうした訓練は不可欠であると言えるでしょう。さらに、その人の文化的・社会的背景を想像または理解するために、文化や宗教などをできるだけ多く学ぶことが求められます。

第3ステップの臨床実習課程に進んだ受講者のうち、面接を含む最終考査を経て、20代から70代までの僧侶5人、寺族1人が4月1日をもって、晴れて日本初の臨床仏教師として認定されました。4月21日には、東京都内で認定式が行われました。

◆いま、なぜ「臨床仏教」なのか

これまで全青協は、お寺での日曜学校や子ども会など、仏教精神に基づく青少幼年の教化活動を推進してきました。こうした宗教情操教育は大きな可能性を秘めています。人の一生に影響を及ぼすほどのものです。

しかし時代が変化するにつれて、それだけでは現代に特有の苦悩に対応できない状況が生まれてきたのです。

平成に入った頃からでしょうか、ひきこもりなど新たな「苦」を、子どもたちとその家族が抱えるようになりました。虐待によってトラウマを抱えた子どもたちであったり、売買春の未成年者であったり、自死念慮者であったり......。これは、子どもだけの問題ではなく、大人も同じです。社会が疲弊していくなかで、多くの人の心も疲弊しています。たとえば、この方たちをお寺へお連れすることで、事態を悪化させない予防効果はあると思います。癒しの効果もあることでしょう。しかし、いまここで苦しんでいる人、現代的な苦悩を抱えている人に対する危機対応としては、十分とは言えません。

昔から、危機対応を行ってきた僧侶はいました。しかしこれまで、その方たちは宗派や地域の寺院ネットワークの中で異端視され、孤立してきました。「お寺は葬式や法事、祈祷をしていれば十分。何でそんなことまで首を突っ込むのだ」と、ひがみ半分に批判されてきたのです。

10年前、そういう方々をつなぐために、全青協は「てらねっとEN」(全国不登校ひきこもり対応寺院ネットワーク)を立ち上げました。横のつながりを心強く感じる中で、「我々の役割は必要なものなのだ」と、思いを新たにしたものです。

同時に、同志を育て、増やす必要性も感じたのです。より多くの僧侶が現代の生老病死に寄り添い、ケアに携われる専門家となれば、多くの方がこころに安らぎを感じて下さると考えたのです。

苦しみの多い社会で、宗教者は何かの役割を担わなければ、宗教者として存在する意義も危ぶまれます。そのきっかけづくりこそが、臨床仏教師養成プログラムのスタートでした。

◆宗教者に求められる役割

日本は宗教に対するアレルギーの強い国だと言われています。一般の方は「臨床仏教師」と言われてピンとこないばかりか、もしかしたら、微妙なうさん臭ささえ感じてしまうかもしれません。

昨今では、宗教といえば特別な修行や瞑想、徹底的な思弁を伴うものというイメージがあります。しかし、もともと日本人にとっての宗教とは、人の誕生、祭事、死者の弔いなど、地縁、血縁のきずなや日常生活と切り離せないようなものであったようにも思われます。

人間にとって特に大きな苦しみをもたらすものといえば、愛する人との死別や離別ですが、家族や他者とのつながりが薄れてきている環境では、悲しみを分かち合うことでこころを癒す過程が、どうしても抜け落ちてしまいます。

初七日、四十九日といった、昔から行われてきた仏教儀礼も、喪失感に一つの区切りをもたらし、こころを次の段階へと進ませる大切な役目がありました。しかし近年では、その意味が論じられることもなく形骸化しています。これは、仏教界の怠慢と言えるかもしれません。

また、多くの人が病院で最期を迎える今日、死を医療的にとらえる傾向が強まっているようです。自分の死を、大きないのちの流れのひとつの区切りとしてとらえるか、〝医療の敗北〞によりもたらされたものとしてとらえるかでは、そのこころもちはまったく異なるものになるでしょう。

そして、人や動物の死に触れる機会も減っています。生死という生き物とって避けられない事柄に、私たちはもう少し普段から向き合っていく必要があるのではないでしょうか。ここでも、宗教がその鍵を握っているように思われます。

2011年に発生した東日本大震災は、そうしたことを私たちに思い出させました。災害によって生老病死の苦しみの現場を、宗教者もそうでない人たちも目の当たりにすることになったのです。

同時に、宗教者が被災地に入っていくことによって、宗教者に対する期待や役割というものを宗教者自身が痛切に感じることにもなりました。亡くなった方々の見えないいのちと同じように、生きている方々の魂に対して「寄り添い、祈る」ことが、これほどまでに必要とされるということを実感したのです。

宗教、もしくは宗教による社会責務が、これほど期待されたことは近年なかったことです。

◆答えなき問いに向き合う

アニメ『それいけ!アンパンマン』の主題歌の中では、「何のために生まれて、何をして生きるのか」と歌われています。生きることへの答えのない問いは、子どもでも持っているものです。

そうして青年期にさまざまな壁にぶつかるようになれば、いっそう切実な悩みとなってその人のこころに迫ってくるでしょう。一体誰が、それに答えてくれるでしょうか。

親子関係でさえ希薄化する現在、いのちに関わる問いには、せめて、宗教者が答えようとするべきではないでしょうか。そして、ままならないこの世の中での「もう一つの価値観」を行動でも示してほしいものです。

宗教は、ピカピカのショーケースに収められて遠巻きに眺められるものであってはなりません。生きている人のそばにあって、その人生に伴走し、希望を与えてくれるべきものでしょう。臨床仏教師や臨床仏教が社会の中で定着するとき、人びとのこころや社会そのものが、より安らかで豊かなものに変化することを信じています。

仏教者の自覚と覚悟がいま、問われているようです。