社会とかかわる仏教

緊急提言!「宗教と教育」を考える

神 仁

宗教教育についてのさまざまな議論

近年、公教育における宗教教育の必要性が、さまざまな場で取りざたされています。低年齢化する少年犯罪の原因を宗教情操教育の欠如に求める意見さえあり、宗教教育の果たす役割についてさまざまな形で議論が進んでいます。

ここでは、戦後の教育指針となってきた教育基本法の改正(改悪?)という政治的な動きを取り上げながら、宗教教育の役割と可能性について数回に分けて考えていきます。

また、後段では、一見無関係とも思える有事法制についても言及しながら、子どもたちの豊かな未来の実現について思いを深めていきたいと思います。

Vol.1 教育基本法の改正

◆宗教教育についてのさまざまな議論

近年、公教育における宗教教育の必要性が、さまざまな場で取りざたされています。低年齢化する少年犯罪の原因を宗教情操教育の欠如に求める意見さえあり、宗教教育の果たす役割についてさまざまな形で議論が進んでいます。

ここでは、戦後の教育指針となってきた教育基本法の改正(改悪?)という政治的な動きを取り上げながら、宗教教育の役割と可能性について数回に分けて考えていきます。

また、後段では、一見無関係とも思える有事法制についても言及しながら、子どもたちの豊かな未来の実現について思いを深めていきたいと思います。

◆政治と行政の動き

それでは、まず、教育基本法改正を巡る、政治と行政の一連の動き、そして仏教界の反応についてご紹介をしていきます。

森前首相のもとに設置された教育改革国民会議は、平成12年12月に「教育を変える17の提案」と題した報告書を取りまとめました。報告書では、「教育の原点は家庭であることを自覚する」「学校は道徳を教えることをためらわない」「奉仕活動を全員が行うようにする」「問題を起こす子どもへの教育をあいまいにしない」など17に及ぶ提案を行いました。

これらの提案のうち、17番目の項目「新しい時代にふさわしい教育基本法を」の中で宗教教育について言及し、その必要性を指摘しています。
「宗教教育に関しては、宗教を人間の実存的な深みに関わるものとして捉え、宗教が長い年月を通じて蓄積してきた人間理解、人格陶治の方策について、もっと教育の中で考え、宗教的な情操を育むという視点から議論する必要がある。」

この提案を踏まえた文部科学省は、平成13年11月「教育基本法のあり方及び教育振興基本計画策定」に関する諮問を中教審(中央教育審議会)に対して行いました。そして、中教審は昨年の11月に中間報告を発表し、今年の3月に答申を取りまとめました。

答申では、宗教教育について「人格の形成を図る上で、宗教的情操をはぐくむことは、大変重要である。現在学校教育において、宗教的情操に関する教育として、道徳を中心とする教育活動の中で、さまざまな取り組みが進められているところであり、今後その一層の充実を図ることが重要である」と述べ、その重要性を強調しました。
しかし一方で、「国公立学校における特定の宗教のための宗教教育や宗教的活動の禁止については、引き続き規定することが適当」と、従来の教育基本法の立場を踏襲しています。

仏教界の対応

一方、仏教界では、全日本仏教会が、中教審の答申が出る直前の今年2月に要請書を提出しました。その内容は、教育における深刻な問題の一つの原因を「現行教育基本法の下で道徳教育どまりで、その基礎ともなる宗教教育が過度に軽視されてきた結果である」と指摘し、第9条第1項を、「日本の伝統文化の形成に寄与してきた宗教に関する基本的知識及び理解は、教育上これを重視しなければならない」と改正すべきであるとしています。また、あわせて「宗教的情操の涵養の尊重も明記すること」などについても要請し、教育現場において宗教教育全般を禁止するような解釈を生む余地をなくすことを強調しました。

要請書提出の後、同会は3月に要請内容の実現のために、いわゆる「宗教教育推進特別委員会」を発足させています。

これら全日本仏教会の一連の動きに対して、仏教界の一部からは反発も出ています。

浄土真宗本願寺派真宗遺族会は、今年7月、「教育基本法改正に関わる全日本仏教会に対する要請文」を同会に提出しています。要請文の中では、まず、教育基本法第9条の改正要請が、「国家体制に組み込まれ、国家体制を補完する極めて重大な事態」と受け止めている旨が述べられています。

さらに、「政府において、有事法制と教育基本法「改正」が表裏の関係において提起されてきたことは周知のとおりであります。有事体制下においては「有事」を支え、それに協力する国民精神が準備されていなければなりません。そのために現在、教育現場では「国を愛する心」や「日本人としての自覚」を求める動きがすでに始まっています。子どもの精神を国家が囲い込み、国策に奉仕する国民に仕立て上げていく体制が着々と作られております」などと指摘し、「教育基本法改正の動きをすみやかに中止すること」を強く要請しています。

議論の活発化

では、このような宗教教育の必要性をめぐる議論がなぜ活発になったのでしょうか?

そのひとつの理由は、神戸の酒鬼薔薇聖斗による連続児童殺傷事件に端を発する、かつて想像できなかった動機による10代の子どもたちの犯罪が、社会の中でクローズアップされたことが挙げられるかと思います。そしてまた、学級崩壊や不登校問題など、学校教育の破綻とも言える深刻な状況が引き金になったとも考えられます。

そこに戦前の教育勅語を信奉する一部の政治家たちの思惑が重なり、ここ2~3年で、加速度的に法改正に関する議論が活発になったように思われるのです。

いずれにせよ、世間が宗教教育について論ずる時、それは多分に政治的な問題と絡む可能性があるということをまず知っておいていただきたいと思います。(つづく)

(ぴっぱら2004年1月号掲載)

Vol.2 誰が宗教を教えるのか?

宗教教育とは何か?

今回は、「宗教教育とは何なのか」ということについてお話ししてみたいと思います。

宗教教育はその内容から、おおまかに分けて二つの要素から成り立つと考えられます。ひとつは「宗教についての知識の習得」であり、もうひとつは「宗教的情操の育み」です。

前者は、宗教の概念をはじめ、各宗教の歴史や教理などについての「客観的な学び」と言えます。知識を習得することによって、子どもたちの中に宗教に対する批判的な視野が開けてきます。教師となる人間は、自分自身が信仰を持っていなくとも、宗教についての知識さえあれば子どもたちに教えることができます。

後者は、人間を超えた存在や宗教的な真理に対する「主体的な信の育み」です。そこには、よく言われる「畏敬の念」や「愛・慈悲」といった宗教的情操感情が生まれ、自分自身の内面を深めていくと考えられます。信や情操感情というものは、教師が子どもたちに直接教えることはできません。できることは、教師が自身の信について言葉や行動を通じて子どもたちに示すことだけです。その経験をもとに子どもたちは、体感を通して自らの中に自らの信を育んでいくことができるのです。

私自身についてお話をすれば、真理の獲得や信の確立をめざして、大学や大学院で仏教について勉強をしましたが、その結果得たものは「宗教に関する知識の習得」だけだったという思いがあります。その後、社会の中でのさまざまな経験を通じて、体感として仏の教えについて学び、少しずつではありますが真理に対する信というものを確立してきました。

とはいえ、もとよりこの道に終わりはなく、死ぬまで修行が続くことは言うまでもないことではありますが......。

これらは、「知識」と「智慧」の違いに換言することができるのではないかと思っています。宗教研究者にとっては、知識の習得はまさに命題ですが、宗教者にとって知識は智慧を生むためのひとつの要素ということになります。知識は大切なものですが、身体感覚を伴った「行」を通じなければ智慧は生まれてきません。仏教では「理行一致」ということをよく言います。理と行が兼ね備わったところに智慧が生まれ、そこに信が確立されてくるのです。

つまり、宗教教育における「宗教についての知識の習得」の担い手は「知識の人」であり、「宗教的情操の育み」を担うのは「智慧の人、信の人」ということになります。 

宗教情操教育の可能性

では、仏教的な真理とは何なのでしょうか?

お釈迦さまが語った真理のひとつの表現が「縁起」です。「法を見るものは縁起を見る。縁起を見るものは法を見る」と原始仏典に説かれているように、縁起こそが仏教者が依って立つべき真理と言えると思います。

縁起とは、文字通り「縁って起こる」ということであり、すべての物事は何らかの原因によって起こる(生じる)という意味です。私自身はこれを、時間的にも空間的にもすべての事物が、関係し合って存在していると解釈をしています。

この縁起というものを頭で理解するのではなく、まさに身体で体感することが、仏教的な情操教育の大きな眼目のひとつだと思うのです。

縁起を体感するということは、「人は多くのものに支えられて生きている。他から多くのものをいただき、自分の中に取り込んで生かされている」という真実に気づくことです。すべての生きとし生けるものは、目に見えるもの、見えないものによって互いに支え、支えられて存在しています。

それは「自他一如」の世界であり、縁起という真理に照らせば、人を殺したり傷つけることは、すなわち自分自身を殺し傷つけることに他ならないことになるのです。縁起という真理を少しでも体感すれば、現在世界中に蔓延している暴力の嵐は、自ずと収まっていくことでしょう。

宗教情操教育の担い手

さて、問題はこのことをどのように子どもたちに伝えていくかということです。

一例を挙げてみたいと思います。

昨年の夏、全青協では、鎌倉の建長寺をお借りして小中学生を対象とした「寺子屋サマースクール」を開催しました。テーマは「共生」。異なる国や民族・宗教の理解を通じて、どのようにして人と人とが共生できる平和な社会を築いていけるのかを、2泊3日の共同生活の中で子どもたちに考えてもらいました。

このテーマを選んだ理由は、一昨年アメリカで起きた同時多発テロに始まる世界中での暴力の連鎖でした。次代を担う子どもたちこそ、平和共生社会実現へ向けての立役者であってほしいと考えてのことでした。

プログラムの内容には、もちろん祈りや坐禅といった仏教的要素も含まれていました。
しかし、中心となったのは、「開発教育」や「異文化理解教育」などのワークショップと、外国人との実際のふれあいでした。仏教的な要素をあまり用いずに、縁起という真理を子どもたちに伝えるためにスタッフが工夫を凝らした結果です。

実際に戦地で使用されたクラスター爆弾や、地雷の模型なども利用しました。子どもたちにとっては少々生々しかったかもしれませんが、それが新鮮さを生み、彼ら彼女たちのこころの中に「我が身にひきかえて」戦争や平和について考える素地が生まれたように思われます。理と行を通じて子どもたちの中に智慧を育むことを目指した試みは、自画自賛かもしれませんが、一定の成果を収めたと受け止めています。

この例を通じて私が伝えたいことは、宗教的な情操を育むためには、宗教的な要素、つまり、経典や儀礼を用いずとも可能だということです。つらい坐禅を長時間させるよりも 、実際に外国人と話したり、草木に触れたりすることによって、縁起を体感してもらうことの方が、子どもたちに対する方便としてはより適当ではないかと思います。

宗教情操教育というものは、一定の形のあるものではなく、融通無碍、多種多様なあり方で存在しうるものではないでしょうか。重要なことは、それを誰が伝えるかということです。先ほどの話に戻りますが、それはやはり「智慧の人、信の人」でなくてはなりません。「知識の人」がそれを伝えた場合、草木とのふれあいはただの自然観察になり、クラスター爆弾は軍事兵器学習の教材となってしまいます。つまり、宗教情操教育は、教師側の信の確立、または確立への姿勢が必須条件となるのです。

宗教者の育成を

さて、現代社会の中でその要件にかなった人が、はたしてどれほどいるのでしょう。仏教の世界に限って言うと、ほとんどの若者が家業として寺を継承するために僧侶となっていきます。そのような状況の中で、自らの信を確立し宗教情操教育の担い手となることができる人間がどれだけいるのでしょうか。

そのことに思いを馳せる時、宗教情操教育の可能性を考える際に真っ先に論じなければならないのは、担い手になる宗教者をどのように育成していくかということではないかと思うのです。(つづく)

(ぴっぱら2004年2月号掲載)

Vol.3 子どもたちを戦場へ送り込まないために

自衛隊のイラク派遣(派兵?)

2004年1月31日、衆議院は野党欠席の中、自衛隊のイラク派遣(派兵?)案を可決しました。そして翌2月1日、イラク南部のサマワに派遣される陸上自衛隊への隊旗授与式が、北海道旭川市内の旭川駐屯地で行われました。式典に出席した小泉純一郎首相は、「日米同盟と国際協調を口だけではなく、行動で示すのが自衛隊だ。強い使命感と自信を持ち、この重要な国家の仕事に進むことを望む」との訓示をしたそうです。

3日には、陸上自衛隊第一陣およそ90人が、家族らの振る日の丸の旗に見送られながら、北海道の新千歳空港を出発しました。第二次大戦終結後初めて、戦闘の続く地域に自衛隊員が派遣されたのです。昨年の8月1日に成立したいわゆる「イラク特措法」にもとづく政府の判断でした。今後、主力部隊約400人余りが、2月末から3月末にかけて3段階に分かれてイラクへ向かう予定です。また海上自衛隊も、陸自部隊の車両や機材などを輸送するための大型輸送艦と護衛艦をすでに出航させました。

これはまさに戦後58年目に起こった日本の歴史を大きく転換させる出来事といえるでしょう。家族らに見送られる自衛隊員の姿を見ていた戦争体験者たちは、その多くが「戦時中の出征兵士の姿を思い起こした」と感想をもらしました。筆者自身も同様の思いを抱きました。そして、「恐ろしい時代になったものだ」とも......。

この自衛隊のイラク派遣については、国民の中でも賛成と反対に意見が二分されています。

つい先日、ある宗門系の中・高校で講演をした際、生徒たちにこの問題について「賛成・反対・よく分らない」の3つの選択肢を提示して意見を聞いてみました。その結果は、およそ10%強が賛成、10%弱が反対、あとの生徒はみなよく分らないという意見でした。たしかに一般の生徒たちにとっては、まだまだ「政治の世界のこと、遠い外国の話」なのかもしれません。

イラクの問題を含め世界の平和について、充分に学んだり考えたりする機会や時間を、大人たちが提供していないのでしょう。子どもたちの中に、自分で考え決定する力を養ってこなかった日本の教育システムの弊害がここに現れているのかもしれません。
しかし一方で、メディアの報道によれば、ある女子高校生が小泉首相宛に自衛隊派遣反対の署名を提出したことが伝えられています。これに対する首相の反応はというと、「自衛隊は平和的貢献をする。学校の先生も生徒に話さないと」と発言し、この女子高校生の行動を真っ向から否定しました。また、「先生方が『自衛隊は戦争に行く。憲法違反だ』と(生徒に)言ったら問題がある」などと、教育現場への「介入」とも取れる発言もしています。

日本政府も批准している「子どもの権利条約」が認める、子どもたちの「意見表明権」を否定するような日本の首相の発言です。小泉さんのこのような姿勢に、強い憤りを感じるのは私だけでしょうか?

一昨年のアメリカ同時多発テロ以来、世界は暴力連鎖の渦の中に巻き込まれていますが、どうも日本もその真っ只中にあるようです。過去60年近くにわたり守ってきた平和・非暴力という旗をこれほどいとも簡単に降ろしてしまうとは想像だにしませんでした。アメリカが占領しているイラクという国に、占領軍の一部として出かけていく自衛隊の姿を見る時、世界で評価されている平和憲法の理念とは、まったく逆方向に日本の国が進もうとしているようにしか思えないのです。

子どもたちの未来はどうなっていくのでしょうか? とても不安で仕方がありません。

有事法制3法案の成立

さて、イラク特措法は昨年の8月に成立したと申し上げました。実はその2カ月前に、これよりもさらに重要ともいえるある法律が成立していたのです。「有事法制」という言葉をみなさんはお聞きになったことがあるかと思います。「有事」とは予測を超えた「非常時」のことであり、具体的には「戦時」のことを意味します。ですからこの法律は、「戦時のための法律」「戦争をするための法律」とも言えるのです。

2002年4月、小泉内閣は「有事法制三法案」を国会に提出しその成立を目指しました。三法案とは、いわゆる「武力攻撃事態法案」「自衛隊法改正案」「安全保障会議設置法改正案」のことです。これら三法案は衆参両議院で検討された結果、わずかな修正を経て昨年の6月6日に成立をしたのです。小泉首相の父親である小泉純也さんが、佐藤栄作内閣で防衛庁長官を務めていたころからの悲願が、およそ40年ぶりにかなった瞬間でした。

この武力攻撃事態法の中では、次のように国民の義務が定められています。
「国民は、国及び国民の安全を確保することの重要性にかんがみ、指定行政機関、地方公共団体又は指定公共機関が対処措置を実施する際は、必要な協力をする様務めるものとする。」(第8条)

つまり、他者からの武力攻撃に際して、国民は国の求めに応じて協力をすることが義務付けられたのです。これを拒否することは基本的に法律違反となります。

では、国が国民に求めるものとは何でしょうか? それは「徴発(物品・所有物の強制収用)、徴用(労働の強制)、徴兵(兵役の強制)」などが考えられます。実際、60年前にはこれらのことが当然のこととしてすべての国民に課せられていましたし、これに違うものは、「非国民」として「村八分」にされたり「投獄」されたのです。

戦時には人権や民主主義は極端に制限される可能性があります。この法律は、まさにそれを合法的に、国が国民に課するためのツールと言えるでしょう。この場合、国とは国民のことではなく、首相を初めとする一部の為政者たちのことを指します。戦時には、国と国民は別個のものになるのです。

この法律は、「武力攻撃が発生した事態または武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態」「武力攻撃事態には至っていないが、事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態」において発動されます。

この、「認められる」あるいは「予測される」に至った事態を誰が判断するのかといえば、それは首相並びにその周辺の人たちということになります。つまり、小泉総理や福田官房長官、石破防衛庁長官らが、「予測される」と判断した場合、私たちの人権はさまざまな形で合法的に制限されてしまうのです。

特に最悪な状況は「徴兵」ということです。近未来、今を生きる子どもたちがその対象になる可能性があります。韓国を初めとする日本の近隣諸国は、いまだに徴兵制を敷いており、日本も再びこれらの国の仲間入りをするかもしれません。

「国際貢献することは日本にとって義務である」と言って、自衛隊のイラク派遣を決めた小泉首相です。もし、派遣された自衛隊員が殺害され、若い世代の人たちが自衛隊を除隊したり、新たに入隊する人数が減った場合、「国際貢献は日本国民にとっての義務である」と言って、徴兵制を復活させる可能性があるのです。

(ぴっぱら2004年3月号掲載)

今求められる「正見」

さて、もうおわかりの方がおおぜいいらっしゃることと思います。「有事法制の成立」と「教育基本法の改正」、これらは戦争ができる国造りをするためのシステム作りの一環です。ひとつのコインの裏表なのです。前者は物やシステムなど、いわばハード面に関する法律作り、後者は「心」というソフト面に関する法律作りと言えるでしょう。

有事法制によって、いくらシステムを作っても、それに従う人間がいなければ机上の空論になってしまいます。教育基本法改正案の中では、「愛国心の宣揚」や「宗教情操教育の義務化」などを明文化しようという動きがあります。ここで言う「宗教情操教育」には、戦前戦中の天皇を中心に据えた国家神道も含まれてくる可能性もあります。子どもたちに愛国心を幼いころから植え付け、日本の一部の文化や伝統を守るために、自ら進んで戦地に赴くことのできる人作りを今まさに国は進めようとしているのです。

愛国心については、すでに小・中学生に配布されている「心のノート」のなかでうたわれ始めています。私たちの知らないところで、また、気づかせないように事は着々と進行しているのです。子どもたちへのマインドコントロールはすでに始まっています。

お釈迦さまは、人の生きる道として「八正道」を説きました。その冒頭に挙げられるのが「正見」です。この世のすべての物事を、縁起という真理にのっとりながら、我執を捨て自然無為に見ていくことです。目先のことに執われずごまかされず、今起こっている出来事を一つひとつ正しく見ていく努力が私たちに今求められています。

そして、「正見」に基づいた正しい行い「正業」も――。(J)