社会とかかわる仏教

仏教とボランティアを考える

2002年 神 仁

ボランティア・デビュー

大学二年の時、私は同級生の友人から、障害を持つ子どもたちを対象にした地域のボランティア活動に誘われました。日ごろからボランティアに興味のあった私は、友人に連れられて大学から五キロほど離れた場所にある児童館へ向かいました。そこには、四肢をほとんど動かすことのできない重度の障害を持つ子どもたちが、毎週一~二回ですが定期的に集まって来ていました。
私たちがすることは、彼らと一緒に二時間ほどただ遊ぶことです。それが、私が意識的に行った生まれて初めてのボランティア活動です。二十畳ほどの部屋の床にはカーペットが敷かれ、四~五歳から七~八歳の子どもたちが十人ほど寝転んでいました。部屋に入って行くと、傍らで子どもに寄り添っている母親が、「こんにちは」と挨拶をしてくれます。こちらも「こんにちは」と、明るく返事を返します。
ところが、当然ながら子どもたちからは言葉がありません。彼らは床に横たわったまま顔だけをこちらにゆっくりと向けるのが精一杯です。しかし、その目の力はとても強く、目線をまったくはずさずに、初めてその場を訪れた私を見つめます。その目の力は、「新参者、何をしに来た」とでも言っているかのように、その時の私には受け止められました。
友人から事前に話は聞いていたものの、重度の障害を持つ子どもたちを実際に生まれて初めて間近にすることは、思った以上に大きなショックでした。次の瞬間、私は恐怖にも似た感覚に襲われ、その場を逃げ出したいような衝動に駆られました。キリスト教の説く「愛」や、仏教の説く「慈悲」について十代のころから考え、人の話や書物を読む中で蓄えた頭の知識が、現実の場では何も役に立たないことをつくづく思い知らされた瞬間でした。
ほろ苦い思い出となった私のボランティア・デビューです。
その二時間のあいだ、逃げ出したい衝動をなんとか押さえ込み、私はその場に留まり続けました。そして、わずか二時間のあいだに、私の心の中身は大きく変わっていきました。それまで自分の心の片隅にあった「障害のあるかわいそうな子どもたちと遊んであげよう」といった高慢な思いは、もはや消し飛んでいました。「子どもたちに遊んでもらった」「子どもたちに生きるということの意味を教えてもらった」という思いが、帰途に着く私の心の中を占めていました。
それは、ボランティア活動が「与えること」ではなく「与えられること」なのだということに気づかされた大きな体験でした。新たな価値観を私は体感したのです。私にとっては、人生の中の大きなエポックとなりました。私ばかりでなく、多くのボランティアの方々が、同じような体験と実感を持っているに違いありません。 「愛」や「慈悲」という理念は、現実の社会的な関係性の中で、具体的な行動になってこそ意味があるのだという実感――それは、数十年たった今でも私の生き方を大きく方向づけています。

仏教的ボランティアの源

少々自分のことばかりお話し過ぎたようです。
ここで、仏教とボランティアの関係について少しご説明しておきましょう。
みなさんは、仏教の歴史の中で最初にボランティア活動をしたのは誰だかお分かりになりますでしょうか?
それは、お釈迦さまです。意外だと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、少なくとも私はそう信じています。お釈迦さまは六年間の苦行を捨てて、菩提樹の下で瞑想に入り、やがて悟りを開きます。世の中のすべての束縛から解放され、苦しみを滅したブッダ(仏)となったのです。
しかし、そこでお釈迦さまは迷います。自分が悟った真理を人々に説くべきかどうかについて――。
「私が悟ったこの真理は深遠で難解である。はたして他の人々が理解してくれるだろうか......」。
思い悩んでいるお釈迦さまのもとに、ヒンドゥー教の最高神ブラフマン(梵天)がやって来ます。そして、「ぜひその真理を世の人のために説いていただきたい」と懇請します。これを「梵天勧請」と言いますが、この部分は挿話として、お釈迦さまの心の動きを仏伝の作者が表現したものだと思います。
お釈迦さまはついに決意し、ここから四十年あまりにおよぶ布教の旅が始まります。これが仏教におけるボランティア活動の始まりです。旅の途中では、異教徒による迫害や命の危機にもさらされたようです。
なぜ、私がお釈迦さまの布教をボランティア活動というのか、それには次のような理由によります。
歴史的なボランティア活動の理解には、「自発性」「無償性」「利他性」という三つの要素が挙げられます。「自発性」とは、他者による強制ではなく、自らが選択して自分の自由意思によるということです。「無償性」とは、何かの対価を求めて行うものではないということです。「利他性」とは、他の人や社会のために行うということです。
お釈迦さまは、他者からの強制ではなく自らの意思によって真理を説くことを決意しました(自発性)。その行いは自分や家族の生活を支える糧を得るためではありません。国を守るためでもありません(無償性)。その目的は、多くの人をこの現実世界の苦しみから開放し、真の幸福をもたらすためです(利他性)。
いかがでしょう、お釈迦さまの布教の旅は、まさにボランティア活動としての側面があったと言うことができるのではないでしょうか。お釈迦さまは、自分だけで悟りの体験を楽しみ続けることもできたはずです。しかしそれは小乗的な行いといえるでしょう。自分だけが悟りを楽しむのではなく、一人でも多くの人に悟ってもらいたいという願いとその行為は、仏教というものがその始まりの段階から、大乗的な特性を持っていたということになります。お釈迦さまはブッダとなられてからも、終生、人々を真理へと導く菩薩だったのです。

縁起観に基づく仏教ボランティア

さて、少しだけ仏教ボランティアについて理念的な面からお話しておきましょう。あまり役には立たないかもしれませんが――。
お釈迦さまが悟った真理の内容の中心は、「縁起」であったと言われています。これは原始仏典の中に見られる「縁起を観るものは法(真理)を観る、法を観るものは縁起を観る」という言葉からも明らかです。私はこの縁起を「時間的にも空間的にも、すべてのものごとは互いにつながっていること」と説明しています。時間的なつながりとは、私たちの命、この人生は、無数のご先祖の存在があってここにあるのだということです。空間的なつながりとは、今この一瞬一瞬を生きるさまざまな人や動物、自然の存在があってこそ私たちの存在があり得るのだということです。
この縁起について、以前アメリカのラブロックという科学者が、「カオス理論」という説を発表してうまく説明してくれました。「カオス」とは「混沌」のことです。彼は混沌としたこの宇宙にも、その存在の生成と消滅をつかさどる一定の法則が必ずあるのだということを提示したのです。
たとえば、中国のある場所で一匹の蝶が羽をばたつかさせたとすると、やがてそれが原因となってアメリカにハリケーンをもたらすといったものです。これはバタフライ理論とも呼ばれているのですが、普通でしたら考えられないことです。これは、蝶の動きという直接原因(因)が、風などのさまざまな間接原因(縁)の作用を受けることによって、ハリケーンという想像だにしない結果(果)を生ずるのだということです。
言いかえるならば、アジアのどこかで起きた個人間の小さな喧嘩が、やがて第三次世界大戦にもなりうるのだということ、アフリカの一人の子どもの飢えが、世界的な飢餓につながることもありうるのだということになります。とても仏教的な考え方だと私は思っています。
お釈迦さまが布教の旅に出た大きな理由がここにあります。縁起という真理に則れば一人でもこの世で苦しむ人がいれば、お釈迦さまも自身も必ず苦しいはずです。この世のすべての存在は、お互いにつながり合って存在しているのですから当然のことですね。ならば、生ある限りその理想に向けて突き進むのが仏や菩薩ではないでしょうか。
そこには「縁起観」に基づき「同事」の立場に立った、「慈悲」の現われとしての「利他行」があります。それが、仏教的なボランタリズムの真髄だと私は思っています。
「慈悲」については皆さんも良くご存知だと思いますが、「他に喜びを与え(与楽)、苦しみを取り除く(抜苦)こころ」のことです。「同事」とは、菩薩が人々を救うために行う「四摂事(四摂法)」という実践方法の中の一つで、他の人と同じ立場に身を置くことです。
この同事について道元禅師は次のように語っています。
「同事というは、不違なり。自にも不違なり、他にも不違なり。たとえば、人間の如来は人間に同ぜるがごとし。人界に同ずるをもて知りぬ、同余界なるべし。同事を知るとき、自他一如なり」(『正法眼蔵』 四摂法)
同事の立場に身を置くということは、すなわち自分と他人が一つになるということです。分け隔てがなくなるということです。これを道元禅師は「自他一如」という言葉で表現しているのです。「自他一如」となったときには、「利他即自利、自利即利他」の関係が生じます。つまり、他の人の喜びが、そのまま自分の喜びとなるのです。それをこの現実の社会の中で実践していくのが、「同事行」としての仏教的なボランティア活動だと思います。
ちょっと難しくなってしまいましたね。
知識はそのままでは智慧には変わることはないのですが、実践の中で智慧を生む助けになることもありますので、一応「そんなものかぁ」と頭の隅に置いておいてください。

生き方としてのボランティア

さて、最後にボランティア活動というものを、現代社会の中での仏教者の生き方に絡めてお話ししておきたいと思います。
今からおよそ七年前、阪神淡路大震災が起こりました。五千人近くの犠牲者と数十万人という被災者がでました。そこには、多くの若者をはじめとする百万人ともいわれるボランティアが、「自分にも何かできるのではないか」と駆けつけました。後にこの年は「ボランティア元年」と呼ばれるようになります。
その二ヶ月後、地下鉄サリン事件が起こります。宗教に名を借りた人為的なテロ行為でした。日本のみならず世界中が震撼しました。その実行犯の多くは、やはり若者でした。松本智津夫が説く「ポア」という救済の方法を信じ、多数の尊い人命を奪ってしまったのです。
命を救うために阪神に駆けつけた若者たち、真理を求めてオウムに入りながらも結果的に人の命を奪うことになってしまった若者たち、この二者の違いは何だったのでしょうか?
仏教者の実践--4つのポイント 私はこのように思います。ほんのわずかな「慈悲」「利他」のこころの有無が、彼らの運命を大きく変えることになったのではないかと――。
「行」という観点から、現代社会の中での仏教者の実践を考えた時、私は四つのポイントがあると思っています。それは「祈り」「瞑想」「同事行(ボランティア活動)」「持戒」です。「祈り」を通じて私たちは、仏や大自然とのつながりを実感することができます。「瞑想」を通じて本当の自分とのつながりを実感することができます。「同事行」を通じて他者とのつながりを実感することができます。「持戒」はその三つを支える肥やし、エネルギーです。
オウムへ行った若者たちは、道場の中で戒を守り、祈り、瞑想をして日々を暮らしていました。それだけでも確かに立派な修行かもしれません。しかし、他者を思いやる「慈悲」や「利他」のこころが、そこには欠けていたのではないでしょうか。自利行に徹する中で次第に慢心が生じ、他者を自分よりも低い存在だと思い、その命を軽んずるところまで至ってしまったのではないかと考えています。
もし彼らの中に、あるいは教義の中に、「慈悲」や「利他」の精神があり、「同事行」を行っていたとしたら、結果はまったく違うものとなっていたでしょう。ひょっとすると、時代を担う宗教界の牽引役にもなれたかもしれません。このことからも、私は現代を生きる仏教者に、ボランティア活動の重要性を強く訴えておきたいと思います。
数年前にお亡くなりになったインド思想の大家である中村元先生が、次のようなことを語っています。
「宗教による社会活動の要請されることが、今日ほど痛切な時代はない。それにもかかわらずかかる活動は決して充分に具現されていない。仏教では慈悲の理想は説くけれども、それを具体的にいかに実践すべきかということについて、仏教教団あるいは仏教学は適切な指示を与えてくれない。これは今の仏教の致命的な弱点である。」(「慈悲の精神」)
同事行としてのボランティア活動は、縁起するこの世界の中で、私たちが他者とのつながりを観じ、共生していくことを可能にする大きな術となります。それは、少子高齢化社会を迎えつつある日本、経済優先のグローバル化の波に襲われている世界全体にとっても欠くべからざるものと言えるでしょう。