仏教者の活動紹介

若者を育む「流汗悟道」の実践

(ぴっぱら2013年7-8月号掲載)

第37回正力賞受賞者の活動 ―曹洞宗地福寺住職 宇野全匡さん―

山形県大石田町にある、曹洞宗()福寺(ふくじ)の朝は早い。6時、住職である宇野全匡(ぜんきょう)さんと、一緒に暮らす若者たちの読経の声が、本堂に響きわたっていた。

山形県のほぼ中央に位置し、最上川を望み、西に出羽三山を眺めることのできる大石田町は、人口8000人ほどの静かな町である。町内は農業が盛んで、なかでも特産品のそばは香り高いと評判がよく、町の内外から多くの観光客を集めている。

●誰もが集えるお寺を

宇野さんが縁あって地福寺の住職となったのは、今から40年ほど前のこと。子どもが大好きで、学生時代から児童教育部に所属していたという宇野さんは、住職となってまもなく、近所の子どもを集めて地福寺日曜学校を開始した。

仏さまのお話を聞かせながら、ともに手を合わせておつとめをするほか、奥さまと一緒に、お茶の会、スカウト活動、空手の会を開いたり、そろばんを教えたりしながら、子どもたちとの時間を過ごした。

子どもたちから「野球をやりたい」とせがまれて結成したソフトボールチームは、平日の早朝から練習させて学校に送り出し、授業が終わった夕方に子どもたちが戻ってきてまた練習する......といったスケジュールで、日曜日に限らず、お寺にはいつも子どもたちの声が絶えなかった。

お寺に親しんだ大勢の子どもたち。たいていは、大きくなったらお寺とのご縁が途切れてしまうものだが、地福寺は違ったようだ。

大石田町の一帯では過疎が進みつつあったことから、宇野さんは若者塾「JC寺子屋」を主宰、農家や商店の後継者、サラリーマンとなった多くの若者を集め、ふるさとの魅力を掘り起こし、地元復興の可能性を議論する場を創った。また、子育ての勉強会「青年塾」を開催し、親となった若者たちに、仏教を学びながら家庭教育の原点を探る場を提供した。

誰もが集えて、こころの修行ができるお寺でありたい。そう願いながら地域の人たちとこころを通わせる宇野さんのもとには、次第に親や教師から、子どもに関するさまざまな相談が寄せられるようになった。不登校、窃盗、薬物使用、自死念慮など、問題行動は10代から20代の若者が発するSOSだった。

●寝食と喜怒哀楽をともにして

宇野さんは若者をお寺に呼び、彼らのこころの内をじっくりと聴いていった。家庭環境や親子関係に問題のある子も多い。そこで、必要があればお寺に滞在してもらい、寝食をともにしながら、一緒に読経したり作務をしたりしながら課題を探っていった。若者は地福寺の「里子」となった。

「里子」の滞在は、最短で3日間だという。夏場、炎天下での草取りや農作業、そして境内に2〜3mの積雪があるという極寒の時期の重労働に、耐え切れず親元に舞い戻る若者も少なくない。寺での生活は、決して安楽ではない。

しかし、なかには数年にわたってお寺に留まり、自分を見つめながら、生きることについて深く考え続けたいと願うようになる者もいる。得度し、仏弟子となる道を選んだ若者は10人を超えた。

一方で、近隣からの「通い」のパターンを選ぶ若者もいる。彼らは朝8時には地福寺に集まり、住み込みの「里子」と同様に作務をして、田畑を耕したり、草取りをしたり、陶芸や工芸作品を制作したりと、それぞれの作業を夕方まで行っている。

欠かさず通う者もいれば、こころの葛藤と闘いながら、定期的に通えるようになるまで何年もかかる者もいる。「3日ぼうずだって、くりかえせば3日ぼうずのプロになれるでしょう。いろいろな子がいて当然、あせらないことです」と、宇野さんは笑う。

中には、軽度の障がいを診断されている者もいる。「いくつものことはできなくていいんだぞ。一つのことをずーっとやっていたらいい。人間国宝を目指せ!」と、ユーモアたっぷりに若者に声をかける宇野さん。世間のものさしでとらえると不器用に見られがちな彼らにとって、こうした言葉は、どんなに心強いことだろう。「里親」の活動は30年以上続いており、地福寺の「里子」となった若者は50人を超えた。そして、お寺とのかかわりで自己発見を果たした者も100人以上となった。

●国も文化も超えて

宇野さんが大切にしている禅の言葉がある。それは、「流汗(りゅうかん)()(どう)」。真実をつかむには自らが額に汗して行動する、という意味だが、若者とともに生活し、一緒に汗を流して、喜怒哀楽を共有する、宇野さんが実践している教育の原点となっている。

また15年ほど前からは、ネパールのヒマラヤ山中の村、ズビンの若者を、私費で寺に受け入れるようになった。現地を訪れた知人から、貧しさと米の不作に悩む村の窮状を聞き、支援を思いたったことがきっかけだという。

宇野さんは以来、毎年数名の若者を寺に招き、地元農家の協力を得ながら農業研修を施して村に帰している。このズビン村支援の活動は、現在ではNPO法人化をめざす「NIJI(虹)」として、山形県内外に100人もの賛同者を集めている。

ズビンの若者の滞在費は、一年間に一人当たり100万円ほどが必要となる。「NIJI」の運営費は、宇野さんが各地で講演をした謝礼金、そして会員の会費と、農作業によって収穫したお米を買っていただく代金などが充てられているという。

「日本の若者とズビンの若者が一緒に生活するでしょう。寸暇を惜しんで学んでいるズビンの若者の姿を見て、日本の若者は自分を振り返ったりもするんです。国も文化も違うけれどお互いに学び合う、そうした効果もあるんです」

両国の若者が育てたお米は、支援者や地元の有志、ボランティアの学生なども交えながらにぎやかに収穫し、交流を楽しんでいる。

●「せずにはいられない」気持ちのままに

宇野さんのこうした一連の活動は、一見、別々のようだが、さまざまな人びとが関係しながら学び合い支え合う、有機的なつながりを築いているように見える。なぜ、宇野さんはご縁のあったことがらに取り組み続けるのだろうか。

「何かしなければならない、というのではとても続きません。ご縁をいただいたことに関わらずにはいられないという、『せずにはいられない』気持ちが原動力ですね。ですから、時にはつらいこともありますが、決して苦しくはない。感じたままに、必要なことを、希望を持って続けていけたら」と、宇野さんは語ってくれた。

また、全国のお寺にも期待を寄せる。「一寺院に一人ずつでもいいんです。苦しみを抱える子どもたちを受け入れてくれたら......。そうすれば、何万人もの子どもが光を見出すことができるでしょう。誰かを救ったり変えたりなんて、本来はできないものです。でも、関わり合うなかでその子自身が気づいたり、答えを見つけたりするチャンスを与えられれば」

●父の智慧と母の慈愛

法務に、支援にと駆け回る宇野さんにサポーターは欠かせない。特に、宇野さんとともに「母」として若者を見守り続ける、奥さまの八重子さんの支えなくしては、人びとが集い学び合う、今日の地福寺の有り様はまた違うものになっていたかもしれない。

宇野さんは数年前に、大病を患い入院していたことがある。そのときお寺に残ったのは、9人もの里子と八重子さんだった。

「不安でしたが、彼らは『和尚がいないから自分だけはしっかりしなくては』と思ったらしく、私に負担をかけるどころか、本当によく手助けしてくれたんです」と、八重子さんは嬉しそうに語ってくれた。

父の智慧()と母の慈愛、双方が厳しくも温かい光となって、地福寺に集う若者とその家族を、そして地域の人びとを、今日も明るく照らしているように思えた。

世代を超えて集えるお寺を ―祐天寺― 耳を傾け、全身で寄り添うこと