仏教者の活動紹介

こころの回復 海越えて

(ぴっぱら2006年7月号掲載)

第30回正力賞受賞者の活動 ―三輪照峰―

「世界ハンセン病友の会」

「数多く存在する差別問題の中で、ハンセン病は最も古く、深刻な問題のひとつです」
そう語るのは、東京都北区の地福寺住職であり「世界ハンセン病友の会」代表も務める三輪照峰さん。
「世界ハンセン病友の会」は、昭和46年、東京・東村山市にある国立ハンセン病療養所・多磨全生園の患者であった原田嘉悦さんが、ハンセン病を患い、病苦や病気に対する差別・偏見に苦しむ仲間を支援しようと活動を始めたことがきっかけで生まれた。
多磨全生園は武蔵野の雑木林に包まれた緑の多い静かな自然環境のなかにある。現在、5~600人程度の患者が入所している。
三輪さんが先輩の僧侶に誘われて全生園を訪れ、初めてハンセン病患者と接したのは、昭和45年のこと。当時、ハンセン病は恐ろしい伝染病として認識されたことに加え、昭和6年に「癩予防法」が制定されたことにより、すべての患者は療養所に強制的に隔離、収容されていた。全生園も例外ではなく、周囲を高い垣根に囲われ、資格がなければ訪問も許されなかった。 そのため、三輪さんは在学中に布教師の資格を取得。全生園の真言宗駐在布教師として通うことになった。一歩足を踏み入れると、法要の間は患者と布教師の間が柵で隔てられているような現場だった。
「変わってしまう外見や世間から受ける差別や偏見とは裏腹に、患者さんは温和で優しい目をしている。そのギャップはどこからくるのか、患者さんの人生を個人的に知りたいと思ったんです」
ハンセン病患者を取り巻く環境と、病気の後遺症によって時として変わってしまう患者の姿に衝撃を受けながらも、三輪さんは毎日根気よく全生園に通い続けた。

言葉の柵を越える

ある日、三輪さんは病状が悪化して寝たきりになった男性患者を見舞った。神経が麻痺していたため、目・耳が使えず、皮膚の感覚もなかった男性には他に見舞う人もなかった。自分になにができるかを考えた時、「手を握って辛抱するより他にない」と考えた三輪さんは、男性の傍らで手を握り続けた。10分、20分......なにも反応はない。しかし1時間もすると、男性の見えない目にすっと涙が流れた。それを見た時、人間というのは、言葉が通じなくても感覚がなくても、生きている限りはなにか通じるものがあることを三輪さんは確信した。
三輪さんの話してくれたこのエピソードは、ハンセン病患者と信頼を築くことは決して言葉だけにとらわれないことだということを私たちに教えてくれる。
「どんなに立派な法話を話せたとしても、患者さんの出してくれたお茶とお茶請けが食べられなければ、全生園の布教師はつとまらないんですよ」と三輪さんは言う。話す話さないは関係なく、毎日通い、患者さんの出すお茶を飲み、お茶請けを〝直〟に食べる。言葉の柵を越えた、こころとこころの〝直〟の触れ合いが、差別や偏見の柵を越えると改めて感じさせられた。

ハンセン病に対する意識の改善を

世間から隔絶され、お見舞いの人もない昭和40年代の現状を憂い、ハンセン病患者の生活改善や障害者年金制度の充実を図るため、三輪さんは何度も新聞や雑誌に投稿し、訴えかけた。昭和60年、『朝日新聞』の「論壇」に初めて記事が取り上げられ、ハンセン病を取り巻く問題が目に見えてよくなっていったという。投稿記事を読み、活動に賛同した人びとからも多くの支援金が集まった。三輪さんが紙上で改正を訴え続けた「らい予防法」は、平成8年4月に施行された「らい予防法の廃止に関する法律」でようやく廃止された。
しかし、完全に差別や偏見がなくなったわけではない。療養所入所者があるホテルに宿泊を拒否され、大きな議論を巻き起こした事件は未だ記憶に新しいところだ。
日本でハンセン病問題にようやく改善の兆しが見え始めた頃、世界では、すでにハンセン病は危険な病気ではないと認識されていた。日本と世界で、なぜこれほど差が生じたのか。その原因のひとつとして考えられるのは、ハンセン病についての教育が十分になされていなかったことだ。
手足や顔面が変形してしまう後遺症のあるハンセン病は、正しい知識を持っていないと、本能的な恐怖心から差別や偏見を生んでしまう。三輪さんをはじめとする多くの人びとの訴えは、教育の普及とともに、ハンセン病の実態と真実を次第に明らかにしていったと言えるだろう。

活動の場を広げて

三輪さんの活動は国内だけにとどまらない。ミャンマーのハンセン病患者の住む村でも、患者の自立支援活動を展開している。ミャンマーでは、早急に対応すべき感染症の優先順位が決まっており、その中でハンセン病の順位は低い。日本のように、ハンセン病を差別視する法律はないものの、やはり差別は存在している。しかし、国からの援助はない。患者を取り巻く環境は一昔前の日本のようだ。
三輪さんは、私財を投げ打って患者の社会復帰を目指す作業所を建設、ミシンを提供するなどして縫製などの技術を習得してもらおうと働きかけた。
また、日本において、教育の普及が病気への意識の改善に繋がることを実感した三輪さんは、第二次世界大戦のビルマ(現ミャンマー)戦線の戦没者を供養するために建立した「竪琴寺」で外国語学校を開校。「ミャンマーは日本からの観光客も多い。将来、通訳等で活躍してもらえれば」と願う。海外に活動の場を広げる三輪さんは、病に倒れた身であるが、歩ける限りは現地に赴き、支援を続けていきたいと意欲的だ。

善悪の基準

近年、日本では子どもが事件に巻き込まれる事件が多発している。日本の親には子どもを養育する自信や信念が失われているようだ。親に自信がなければ、子どもが親を尊ぶ意識も生まれない。病者の人権を守り、回復する活動の根底には、親を含め、自分以外の他者を大切にするこころ、信じるこころが存在する。
それらのこころが育てられない日本社会の現状を受けて、三輪さんはこう提言する。「信仰を持つことは、善悪の基準を持つことです。今の日本人は信仰を持たないことが文明人だと思っている。しかし、善悪の基準がなければ、人から信じてはもらえないでしょう。信仰を持つこととはなんなのか。今一度、考え直してみてはいかがでしょうか」

(ぴっぱら2006年7月号掲載)
境界を乗り越えて平和を築く ―平和を学び・考え・願う青年仏教者の集い― 共に生き、共に学ぶ ―シャンティ国際ボランティア会―