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―緊急提言!!―
「宗教と教育」を考える
Vol.2 誰が宗教を教えるのか?
◆宗教教育とは何か?
今回は、「宗教教育とは何なのか」ということについてお話ししてみたいと思います。
宗教教育はその内容から、おおまかに分けて二つの要素から成り立つと考えられます。ひとつは「宗教についての知識の習得」であり、もうひとつは「宗教的情操の育み」です。
前者は、宗教の概念をはじめ、各宗教の歴史や教理などについての「客観的な学び」と言えます。知識を習得することによって、子どもたちの中に宗教に対する批判的な視野が開けてきます。教師となる人間は、自分自身が信仰を持っていなくとも、宗教についての知識さえあれば子どもたちに教えることができます。
後者は、人間を超えた存在や宗教的な真理に対する「主体的な信の育み」です。そこには、よく言われる「畏敬の念」や「愛・慈悲」といった宗教的情操感情が生まれ、自分自身の内面を深めていくと考えられます。信や情操感情というものは、教師が子どもたちに直接教えることはできません。できることは、教師が自身の信について言葉や行動を通じて子どもたちに示すことだけです。その経験をもとに子どもたちは、体感を通して自らの中に自らの信を育んでいくことができるのです。
私自身についてお話をすれば、真理の獲得や信の確立をめざして、大学や大学院で仏教について勉強をしましたが、その結果得たものは「宗教に関する知識の習得」だけだったという思いがあります。その後、社会の中でのさまざまな経験を通じて、体感として仏の教えについて学び、少しずつではありますが真理に対する信というものを確立してきました。
とはいえ、もとよりこの道に終わりはなく、死ぬまで修行が続くことは言うまでもないことではありますが……。
これらは、「知識」と「智慧」の違いに換言することができるのではないかと思っています。宗教研究者にとっては、知識の習得はまさに命題ですが、宗教者にとって知識は智慧を生むためのひとつの要素ということになります。知識は大切なものですが、身体感覚を伴った「行」を通じなければ智慧は生まれてきません。仏教では「理行一致」ということをよく言います。理と行が兼ね備わったところに智慧が生まれ、そこに信が確立されてくるのです。
つまり、宗教教育における「宗教についての知識の習得」の担い手は「知識の人」であり、「宗教的情操の育み」を担うのは「智慧の人、信の人」ということになります。
◆宗教情操教育の可能性
では、仏教的な真理とは何なのでしょうか?
お釈迦さまが語った真理のひとつの表現が「縁起」です。「法を見るものは縁起を見る。縁起を見るものは法を見る」と原始仏典に説かれているように、縁起こそが仏教者が依って立つべき真理と言えると思います。
縁起とは、文字通り「縁って起こる」ということであり、すべての物事は何らかの原因によって起こる(生じる)という意味です。私自身はこれを、時間的にも空間的にもすべての事物が、関係し合って存在していると解釈をしています。
この縁起というものを頭で理解するのではなく、まさに身体で体感することが、仏教的な情操教育の大きな眼目のひとつだと思うのです。
縁起を体感するということは、「人は多くのものに支えられて生きている。他から多くのものをいただき、自分の中に取り込んで生かされている」という真実に気づくことです。すべての生きとし生けるものは、目に見えるもの、見えないものによって互いに支え、支えられて存在しています。
それは「自他一如」の世界であり、縁起という真理に照らせば、人を殺したり傷つけることは、すなわち自分自身を殺し傷つけることに他ならないことになるのです。縁起という真理を少しでも体感すれば、現在世界中に蔓延している暴力の嵐は、自ずと収まっていくことでしょう。
◆宗教情操教育の担い手
さて、問題はこのことをどのように子どもたちに伝えていくかということです。
一例を挙げてみたいと思います。
昨年の夏、全青協では、鎌倉の建長寺をお借りして小中学生を対象とした「寺子屋サマースクール」を開催しました。テーマは「共生」。異なる国や民族・宗教の理解を通じて、どのようにして人と人とが共生できる平和な社会を築いていけるのかを、2泊3日の共同生活の中で子どもたちに考えてもらいました。
このテーマを選んだ理由は、一昨年アメリカで起きた同時多発テロに始まる世界中での暴力の連鎖でした。次代を担う子どもたちこそ、平和共生社会実現へ向けての立役者であってほしいと考えてのことでした。
プログラムの内容には、もちろん祈りや坐禅といった仏教的要素も含まれていました。
しかし、中心となったのは、「開発教育」や「異文化理解教育」などのワークショップと、外国人との実際のふれあいでした。仏教的な要素をあまり用いずに、縁起という真理を子どもたちに伝えるためにスタッフが工夫を凝らした結果です。
実際に戦地で使用されたクラスター爆弾や、地雷の模型なども利用しました。子どもたちにとっては少々生々しかったかもしれませんが、それが新鮮さを生み、彼ら彼女たちのこころの中に「我が身にひきかえて」戦争や平和について考える素地が生まれたように思われます。理と行を通じて子どもたちの中に智慧を育むことを目指した試みは、自画自賛かもしれませんが、一定の成果を収めたと受け止めています。
この例を通じて私が伝えたいことは、宗教的な情操を育むためには、宗教的な要素、つまり、経典や儀礼を用いずとも可能だということです。つらい坐禅を長時間させるよりも
、実際に外国人と話したり、草木に触れたりすることによって、縁起を体感してもらうことの方が、子どもたちに対する方便としてはより適当ではないかと思います。
宗教情操教育というものは、一定の形のあるものではなく、融通無碍、多種多様なあり方で存在しうるものではないでしょうか。重要なことは、それを誰が伝えるかということです。先ほどの話に戻りますが、それはやはり「智慧の人、信の人」でなくてはなりません。「知識の人」がそれを伝えた場合、草木とのふれあいはただの自然観察になり、クラスター爆弾は軍事兵器学習の教材となってしまいます。つまり、宗教情操教育は、教師側の信の確立、または確立への姿勢が必須条件となるのです。
◆宗教者の育成を
さて、現代社会の中でその要件にかなった人が、はたしてどれほどいるのでしょう。仏教の世界に限って言うと、ほとんどの若者が家業として寺を継承するために僧侶となっていきます。そのような状況の中で、自らの信を確立し宗教情操教育の担い手となることができる人間がどれだけいるのでしょうか。
そのことに思いを馳せる時、宗教情操教育の可能性を考える際に真っ先に論じなければならないのは、担い手になる宗教者をどのように育成していくかということではないかと思うのです。(つづく)
(ぴっぱら2004年2月号掲載)
「宗教と教育」を考える TOP
Vol.1 教育基本法の改正
Vol.2 誰が宗教を教えるのか?
Vol.3 子どもたちを戦場へ送り込まないために
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